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「不本意ながら涙をのんで発令した」遅すぎた司令の方向転換~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#35

RKB毎日放送 / 2024年4月16日 16時30分

1945年、米軍機搭乗員3人の殺害を部下に命令した石垣島警備隊の司令、井上乙彦大佐。GHQへの告発を受けて、BC級戦犯に問われることになった井上大佐は、当初、調べに対して「自分は陣地を回っていたので知らなかった」と述べていた。しかし、裁判直前、方向転換し、「命令したこと」を認めた。裁判が始まって2ヶ月後、井上大佐は法廷の証言台に立った。その結果はー。

◆「私が命令」弁護団と打ち合わせ

国立公文書館には、法務省が収集した戦犯に関する資料が収蔵されている。この中に、弁護人の手元に残されていたとみられる、井上司令に関する裁判資料があった。石垣島事件について米軍が裁いた横浜裁判は、1947年の11月から始まっている。1月15日の日付が入った「司令処刑命令陳述骨子」という文書には、井上司令が幕田大尉や田口少尉に斬首の命令をしたことが記されていた。

さらに、弁護人宛とみられる「尾畑様 1月22日提出」と日付が入った文書が、続けて綴じられていて、こちらはより詳しい「命令要旨」となっている。

<司令の命令要旨>
処刑は18時30分頃(夕食ー時間後位)決意した

1,幕田大尉
斬首を命令した 夕食後電話でバンナ本部に呼び出し、直接命令した(電話19時頃)

2,田口少尉
斬首の命令した バンナ本部の士官室で日没頃(副長より伝達)

3,榎本(炭床)下士官兵
沖縄を支える作戦を受けることを予期し、この上陸決戦の準備訓練(海軍に入り一ヶ月経たない者、兵のために主として)及び、士気鼓舞の為を兼ねて刺殺を命じた

4,前島少尉
処刑場の準備を命ず(18時30分頃)榎本中尉をして補助せしむ 警戒及び捕らえた俘虜の護送を命ず

◆不本意ながら涙を呑んで発令した

そして、次のページからは「処刑決意の理由」が書かれていた。

<処刑決意の理由>
1,該当する飛行機は(米軍機)は、無差別爆撃の攻撃を行った
当日、集団で来襲したあと、1機のみ残り、海岸付近を攻撃、漁をしていたカヌーを銃撃して男女の漁民が死亡す
次いで市街を爆撃、付近に軍備施設は皆無なり 爆撃にて死者がでている
2,昭和17年(1942年)ドーリットル東京空襲後、同年10月、防衛総司令の布告と、同前例及び大西中将より受けた秘密命令による
3,当時、戦況極度に逼迫し、正規の俘虜として取り扱いをすることが出来ず、
・島内海軍陸軍(憲兵隊とも)俘虜の収容能力なし
・空襲激甚にして無差別攻撃を受け、小型漁船ですら台湾との交通は途絶す
・食料が極度に欠乏し、捕虜に与える余裕なし
隊内の影響失調と患者は隊員の三分の一に達し、補給の見込み全然無く、給食の定量700グラムを250グラムに減らしていた
・マラリアが蔓延し、俘虜として留め置けば、マラリア又は栄養失調で死亡は必然なり
当時、隊内の患者は三分の一で、毎日、数名の病死者が続出す
・米軍の石垣島上陸作戦が近いと判断し、人員物資、総じて戦闘準備に備えていた為、俘虜を置いておくための番兵をあてる人員の余裕も全くないので、もし俘虜を置けば、食料不足及び病人頻発となり、兵が過労に瀕して戦うことができない

以上を考察の上、処刑はやむなきものと考え、不本意ながら涙を呑んで発令した

◆「自分がやらせた」証言はなかった?

この内容は、上坂冬子著「遺された妻 横浜裁判BC級戦犯秘録」(1983年 中央公論社)に掲載されている、井上司令が「処刑命令を下した根拠」と一致する。上坂氏が米軍の公判記録から書き出したものだ。井上司令は、1948年2月2日から証言台に立っている。文書の日付から追えば、1月のうちに弁護団と複数回打ち合わせたあと、法廷で「真実」を述べたということか。

裁判が始まってすでに2ヶ月が経過し、このタイミングでの「処刑命令」肯定の宣言は、ほかの被告たちには印象が薄かったのだろうか。事件当時、二等兵曹だった元被告は、1964年の面接調査で次のように述べている。

(元二等兵曹の面接調書 1964年)
「井上司令の法廷における証言について、自分がやらしたのだと受け取れる証言はなかった。責任を取らなかった。」

一方、別の二等兵曹だった元被告は、違う見解だ。

(元二等兵曹の面接調書 1967年)
「井上司令は法廷での証言ではじめて、『かねての大西長官からの口頭内示に基づき、私が処刑を命令した』と証言したものの、既に時期が遅すぎたように思う。」

◆証拠提出された「供述書」

石垣島事件で絞首刑になった田口泰正が主役の「最後の学徒兵 BC級死刑囚・田口泰正の悲劇」(森口豁著 1993年講談社)には、井上司令が証言台に立った1948年2月2日の法廷での様子が記されている。森口さんによると、これも米軍の公判記録に記載されているものだという。この日、1月29日に作成した井上司令の供述書が、弁護側から証拠提出された。内容は、「捕虜殺害を命令したのは自分である」という、弁護団と打ち合わせしたものと一緒だ。

元二等兵曹が後の面接調査で、「井上司令が『処刑を命令した』と証言した」と述べているので、確かに言葉にした場面はあったのだろう。しかし、検察側の反対尋問は、当時の石垣島の食料事情や、遺体を戦後掘り起こして焼いた隠蔽工作にスポットをあてて質問しているようなので、命令があったか否は、この時点では、すでに争点にはなり得なかったのかもしれない。

◆外務省の公判記録に記載なし

日本にも横浜裁判の公判記録はある。外務省の公文書館、外交史料館に収蔵されているものだ。石垣島事件の公判記録を見ると、井上司令が「命令があったことを認めた」重要な局面であるにも関わらず、井上司令が証言した2月2日から5日まで、証言内容の記載がなかった。

2月2日に、すでに提出されている自分の証拠が、意思に反して記載された内容になっているとして、相違点を指摘して訂正したとだけ書かれている。誰が証言台に立ち、委員会や検察側からの尋問が行われたということは書いてあるのだが、質問やそれに対する証言内容は、一切、書かれていない。意を決したはずの、井上司令の「方向転換」は、さしてインパクトもなく、むしろ、遅すぎるという印象を残しただけだった。

そして判決にも、全く反映されなかったー。
(エピソード36に続く)

*本エピソードは第35話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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