「かなしき道をわれもゆくべし」若き副長の最期~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#33
RKB毎日放送 / 2024年4月16日 16時28分
1945年、米軍機搭乗員3人を殺害した石垣島事件で、BC級戦犯として処刑された石垣島警備隊の若き副長、井上勝太郎。スガモプリズンでの井上の様子がわかる手記があった。歌作に励んでいた井上。その人柄。そして死刑執行の日、彼の様子はー。
◆元主計大尉が遺した日記
自ら「巣鴨日記」と名付けた手記を遺していたのは、冬至堅太郎。井上勝太郎の9歳年上だ。福岡市に置かれた西部軍の元主計大尉で、東京商科大学(現在の一橋大学)を卒業している。福岡大空襲で母を失い、西部軍に集められていたB29搭乗員を4人斬首して、BC級戦犯に問われた。絞首刑を宣告されて、井上勝太郎と同じ死刑囚の棟にいた。冬至堅太郎は多彩な人で、スガモプリズン内で、「歌集巣鴨」や「戦犯裁判の実相」「世紀の遺書」などの書籍の編集に関わるほか、「巣鴨三十六景」という版画集も製作している。
◆歌作に励む戦犯死刑囚たち
冬至堅太郎と同じ西部軍が関係する事件には、九州帝国大学医学部の捕虜生体解剖事件があり、九大の医師たちも同じ死刑囚の棟にいて、歌会をひらいていた。日本の拘置所では考えられないが、スガモプリズンでは夕食後、「Visit(ビジット)」と言って、ほかの部屋を訪ねることができた。そうやって交流ができる死刑囚の棟で、それぞれが歌作に励んでいたのだ。井上勝太郎もその一人だった。
幾度か紙片を送り交わしつつ隣房の友と歌一つ論ず (井上勝太郎)
時雨降る今朝は右足の戦傷を両手(もろて)の中に暖めてをり (井上勝太郎)
中学にゆく吾の学資に関りて常に諍ひし父母なりき (井上勝太郎)
◆人間関係のトラブルも
冬至の日記には、井上勝太郎と、同じ石垣島事件で死刑になった田口泰正が部屋を訪ねてきたという記述がある。田口とは斎藤茂吉の研究をするなど、かなり親しくしている。
しかし、閉ざされた空間での人間関係は、トラブルが絶えなかったようだ。歌会のグループも解散したり、誰かが脱退したりしている。
ある歌会が解散になった理由を聞かれた井上勝太郎が、「自分のことは白ばくれて」ほかの人の責任のように言ったのを見て、冬至は不信感を持つ。さらに、勝太郎が回覧新聞を作ろうと冬至らに提案してきたものの、人に頼むばかりで自分は動かないのに、「発案者は実は私のことです」と回覧文に書き込んだところで、冬至は怒りを爆発させ、手紙を書いて送った。
◆利口だけでは生きていけない
(冬至堅太郎の日記より)
「君は利口だ、しかし利口だけで生きてゆけると思っているらしいところは大馬鹿です」
冬至は、「若く腹が立ち、言いたいことがあるならおいでなさい。君と私二人きりでゆっくり話し合いましょう。しかし私の所へくるからには、口先や小理屈で勝とうと思うと間違いです」と、午前中に手紙を送り、井上からの返事を心待ちにしていた。しかし、夜になっても何も来なかった。厳しい言葉を送りながらも、冬至は「彼も考えているのだろう」と年長者らしい対応をしている。
これが1950年2月15日水曜日のことだ。
◆最後に交わした言葉は
そして、二月と経たない、1950年4月5日水曜日。石垣島事件7人の死刑執行が決まった。井上が別の棟に移される時に、冬至と交わした言葉が日記に書かれている。
<冬至堅太郎の日記より>
井上乙彦氏のすぐあとに井上勝太郎君。いつも血色が悪かった顔がきょうは一層蒼い。しかし態度は静かだ。
I 長い間お世話になりました。貴方たちの減刑を祈っています。
T 井上さん
I えっ
T 私は貴方と二人っきりで一度ゆっくり話し合いたかった。とうとう出来なかったのは残念ですが、何れ先か中に行ったら一緒です。ゆっくり話し合いませうな。
I ありがたうでざんす
T じゃ、さよなら
I お元気で
死刑執行までを過ごす棟に移された井上勝太郎は、遺書を書き始める。その中に冬至の名前が出てくる。
「昨夜、冬至さんが別れる時に言った事等思ひ出す」
2月15日に受け取った手紙の内容を思い返しながら、叱責だけではない、冬至の深い心持ちを感じとったのだろうか。後で、田嶋教誨師から冬至が井上勝太郎の戒名を請求したことを伝えられている。
◆敗戦の苦悩から教訓を学び取って
27歳で処刑された井上勝太郎は独身で子供はいなかったが、幼い弟を気にかけていた。妹は3日前に面会にきていた。
<「世紀の遺書」より>
「母は戦争で父を失い、又私さえも失うのである。然し堪えてください。これは私が言うのはおかしい事ですが、そして弟を立派に育てて下さい。弟は立派な人間になりませうから。未だ幼くて分からないかも知れませんが、他日この手紙を見せて下さい。敗戦の苦悩をじっと受けてそこから数多くの教訓を学び取って下さい」
勝太郎は死を目前にして、戦死した同期生たちに思いを寄せた。
「戦争中に多くの同期生が死んだ。遠い南海で戦勝を信じつつ、私は敗戦の後に永らへて獄に死なんとするのだ」
愛すべき祖国もたざりし学徒らのかなしき道をわれもゆくべし(井上勝太郎)
(エピソード34に続く)
*本エピソードは第33話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。
◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。
外部リンク
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