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甲斐バンドの歴史と闘争、1983年から1986年までを振り返る

Rolling Stone Japan / 2021年7月13日 8時0分

甲斐バンドのデビュー45周年のライブベストアルバム『サーカス&サーカス2019』

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年6月は甲斐バンド特集。第4週は、甲斐バンドの十二年戦争の最終決戦でもある1983年から1986年までを振り返る。

田家秀樹(以下、田家)こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、甲斐バンドで「ポップコーンをほおばって」。1986年7月31日に発売のライブアルバム『THE 甲斐バンド FINAL CONCERT "PARTY"』に収録されていたものですが、2019年に出た45周年ライブベスト『サーカス&サーカス2019』からお聞きいただいております。マスタリングが新しくなっておりまして、1986年に出たアルバムと比べてやっぱり耳触りがよいのでこちらをお聞きいただきました。

ポップコーンをほおばって [Live] / 甲斐バンド

今月2021年6月の特集は、甲斐バンド。1974年のデビューで、1986年に解散公演としては当時史上最大だった武道館五日間公演で解散しました。あの解散公演から35年ということで、改めて軌跡を辿ってみようと思いました。1970年代のはっぴいえんどから、1980年代のBOØWYに至る過程での最重要バンド。まだロックバンドが不遇の時代に、不退転の活動を続けたロックバンド・甲斐バンド。栄光の十二年間、を辿ってみようという1ヶ月。

今週はPart4、最終週です。解散の時にテレビで放送したドキュメンタリーのタイトルが「甲斐バンド十二年戦争」。その十二年戦争の最終決戦の章です。1983年から1986年までを辿ってみようと思います。「ポップコーンをほおばって」は1週目にもお届けしました。実質的なデビューアルバム『英雄と悪漢』の1曲目でした。1週目は、この後もこの曲をお聞きいただくことになります、とお話しながら今週になってしまいましたが、お分かりのようにアレンジもサウンドもかなり違います。このアフリカンパーカッションのようなビートが、オリジナルには全くありませんでしたからね。こんな風にバンドが変わってきた象徴のような曲です。1980年代に入ってから、特に『破れたハートを売り物に』からこういうサウンドに踏み入れて、ここまでたどり着いた。そんな一曲です。

先週は1982年のアルバム『虜-TORIKO-』で、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったエンジニア、ボブ・クリアマウンテンとタッグを組んだところまでお話しました。甲斐バンドはデジタルの普及で激変していたレコーディング環境といち早く向き合ったロックバンドだった。1982年の年末の武道館二日間で、「いいものを作る時間をくれ」という名台詞を残して、翌年のコンサートスケジュールを全部白紙にして作ったのが、1983年7月に発売されたアルバム『GOLD/黄金』だったんです。その中の曲をお聞きください。

シーズン / 甲斐バンド

この曲を初めて聴いたときは、こんなに音がキラキラしているんだというものでした。ドラムの太さやエコーは1980年代の音ですが、キラキラした音はそれまでの甲斐バンドにはなかったなと思いました。音の聞こえ方が変わってきた。当時のロックバンドのレコーディングの順番、ドラムとベースのリズム隊を録ってからギターを録るという流れと違うものがここから始まってるんです。デジタル・レコーディング。海を舞台にした贖罪と再生のストーリーは、先週の『虜-TORIKO-』の中の「BLUE LETTER」とも共通しているんですが、この「シーズン」は暗い海に向かっていくというよりは、海の向こうに希望が見えるような音の作り方にもなっている気がしました。これは改めて思うことですけど、当時彼らバンドが見ていた光がここにあったんでしょうね。ニューヨーク三部作のアルバムからは、アレンジャーが加わっているんです。後藤次利さん、椎名和夫さん、井上鑑さん、瀬尾一三さん、星勝さんなど、音の甲斐バンドがここから始まっています。この「シーズン」のキラキラしたアレンジは、井上鑑さんがいなかったらできなかったと思います。1983年7月発売10枚目のアルバム、ニューヨーク三部作の二作目『GOLD/黄金』の中の曲でした。

ブライトン・ロック [Live] / 甲斐バンド

続いて、『GOLD/黄金』が出た翌月の8月7日に新宿新都心・都有五号地のゾーンと呼ばれていたエリアで行われたのが、野外イベント「THE BIG GIG」でした。お客さんは2万1千人、東京の都心で行われた最初の大規模な野外イベントですね。その1曲目、ニューヨーク三部作1枚目の『虜-TORIKO-』の中の「ブライトン・ロック」。アルバムは『THE BIG GIG』からお聞きいただいております。

新宿新都心・都有五号地は、今の都庁がある位置です。当時はもちろん都庁なんかできていなくて、住友参画ビルと京王プラザくらいしかなかったんです。あの一角は、周囲に陸橋のように歩道がずっと通っていて、ちょっと下がったところに地面があったんです。周りの歩道からステージが見えるんです。お客さんは2万人くらいいましたが、その陸橋にはチケットを買っていない人がたくさんすずなりになって様子を見ていたんです。都心ど真ん中ならではの野外イベントの光景が繰り広げられました。そういうイベントの1曲目がこれですよ。「マシンガンの銃弾が飛び交う街」、「俺の導火線に火が点いてバチバチ弾けてる」と歌っているわけです。こういう登場でした。戦闘開始、肉弾戦という始まりです。甲斐バンドは『英雄と悪漢』、『ガラスの動物園』で、東京との肉弾戦、どう立ち向かうかを歌にしていましたが、そういう彼らの東京都のドラマのストーリーの最終決戦がここだったんでしょうね。バチバチ火花を散らしておりました。

1982年、1983年はどういう時代だったかというと、松田聖子さん、中森明菜さん、近藤真彦さん、田原俊彦さんがチャートを席巻していて、アイドル新時代と言われておりました。この『THE BIG GIG』の都会ならではのイベントだったところが、住友ビルを借景にしたんです。あそこの壁に照明を当てて、それを演出効果にしたという意味では、新宿ど真ん中ならではのイベントでした。いまのバチバチ弾けていた「ブライトン・ロック」の次に歌われたのが、この歌だったんです。「ダイナマイトが150屯」。

ダイナマイトが150屯 [Live] / 甲斐バンド

「THE BIG GIG」の2曲目です。これは1981年のアルバム『破れたハートを売り物に』の中に入っていたんです。この歌は若い人はご存知ないかもしれませんが、小林旭さんの代表曲なんです。作詞が関沢新一さん、作曲が演歌の大御所と言われている船村徹さん。日本のロックで血が騒ぐという意味で言いますと、この曲は日本のロックと言っていいでしょうね、九州の血というと語弊はあるかもしれませんが、博多の熱というのは甲斐さんがこの曲を選んでいるというところにある感じがしました。

1枚目のライブアルバム『サーカス&サーカス』の頃はティーンネイジャーの女性の歓声が多かった。黄色い歓声が彼らのライブの一つの象徴でもあったという話をしましたが、この頃は少年から男へという変わり方が伝わってきますね。お客さんの中には男の子たち、決して優等生とは思えないような男たちが「甲斐ー!」と叫びながら、泣いているシーンが繰り広げられていました。このイベントの後の年末のイベントで田中一郎さんが参加。1984年に正規メンバーになって1年かけて作ったのが、1985年3月に出た『ラヴ・マイナス・ゼロ』でしたね。このアルバムのために甲斐さんは2回ニューヨークに行っています。しかも、5月にニール・ドーフスマンという人と組んで、10月にはさらにボブ・クリアマウンテンでやり直したんです。タイトル曲をお聞きください。「ラブ・マイナス・ゼロ」。

ラブ・マイナス・ゼロ / 甲斐バンド

甲斐バンドのニューヨーク三部作の三作目、1985年3月発売のアルバム『ラブ・マイナス・ゼロ』のタイトル曲です。このアルバムは、ニール・ドーフスマンとボブ・クリアマウンテンという二人の手を経て作りあげられました。ニール・ドーフスマンは、その後スティングとかポール・マッカートニーなどを手掛けて、二人ともグラミー賞を受賞していますね。日本ではその後、渡辺美里さんや浜田省吾さん、氷室京介さんらと組むようになるのですが、そういう意味では甲斐さんに先見の明があったということですね。

アレンジャーの後藤次利さんも今作に加わっているのですが、たまたま後藤さんと甲斐さんが話している場に私にも同席していて驚いたことがあったのですが、後藤さんが加わったアルバム、恐らくサディスティック・ミカ・バンドだと思うですが、B面の何曲目の何小節で後藤さんがこんなフレーズを弾いていたということが甲斐さんの頭の中に入っておりました(笑)。

アルバム『ラブ・マイナス・ゼロ』は打ち込みのアルバムで、メンバーの演奏は2曲だけ。それぞれ別々にレコーディングしたものを、最終的にボブ・クリアマウンテンに委ねたというアルバムでした。ボブ・クリアマウンテンの当時のスケジュールでは、ダリル・ホール&ジョン・オーツとブライアン・アダムスの間に甲斐バンドが入っていました。

冷血 (コールド・ブラッド) [Live] / 甲斐バンド

1986年3月、突然解散が発表されました。同年3月14日から始まった50本の最後のツアーのタイトルは「PARTY」。締め括りは武道館五日間の公演でした。その様子を収めた『THE 甲斐バンド FINAL CONCERT "PARTY"』からお聞きいただいております。

この曲はアルバム『ラブ・マイナス・ゼロ』の中に収録されているんですけど、トルーマン・カポーティという作家が書いた小説『冷血』という作品がありました。これは実際の殺人事件を元にしたノンフィクション・ノベルとして話題になったのですが、甲斐バンドのハードボイルド路線の代表的な曲がこれですね。そして、最後のツアーの見せ所の一曲でもありました。

解散のきっかけになったのは、ギターの大森信和さんの耳の不調でした。ライブでも音が聞き分けられないくらいに悪化してしまったので、このままだとバンドに迷惑がかかると思って大森さんが辞めたいと言って。甲斐さんは、大森さんと僕で始めたバンドだから解散しようということで一回ピリオドを打ちました。

でも、前例がなかったのは解散のストーリーなんです。1985年3月5日に12枚目となるアナログ2枚組のアルバム『REPEAT & FADE』をリリースしたんですが、これはメンバー4人がそれぞれの面を担当するというソロ・プロジェクトの2枚という感じだったんです。このアルバムの発売記念パーティーがありまして、その席上で解散を発表したんです。この時の甲斐さんのセリフがカッコ良くてですね、「トーンダウンした展開は嫌なんで。真夏の夜の花火のように、パーっと夜空に舞い上がって燃焼したい。甲斐バンドは解散します」と、言ったんです。でも最後のツアーは50本公演があったんですけど、このツアーでは一言も解散という言葉を使わなかった。武道館5日間の最後のセリフ、「サンキュー、じゃあね」。カッコよかったですね。

この5日間はさすがにこれが甲斐バンド見納めだということで、周辺の草むらとか木立の中に寝袋を持ち込んで寝泊まりしていたファンがいた。なかなかチケットが取れなかったわけですけども、スタンド席も開放されたんですがそこだけで2300名が入ったという、武道館の動員の記録という意味でも画期的なライブでありました。でも、この武道館の後というのがあったんですよ。それがこの甲斐バンドのダンディズムでしょう。その模様をお聞きください。ライブアルバム『シークレット・ギグ』から「港からやって来た女」。

港からやって来た女 [Live] / 甲斐バンド

1986年6月29日に横浜市の黒澤明さんのスタジオ、黒澤フィルムスタジオで行われたシークレット・ギグの模様でした。中島みゆきさんが登場しています。武道館5日間の最終日6月27日でその2日後にここでライブをやったんです。1500名収容のところに20万通の応募があったんです。しかも、突然のライブ発表ですからね、よくこれだけの人が応募してきたなと思いました。関係者もお客さんも、全員が正装というドレスコード付きのライブだったんです。

みゆきさんはこの「港からやって来た女」で登場して、吉川晃司さんも登場しました。みゆきさんが他の人のライブのゲストに出た記憶はあまりありませんね。この後20年後、2006年に吉田拓郎さんのつま恋のライブに登場して、「永遠の嘘をついてくれ」を歌ったくらいでしょうか? みゆきさんのこの後、1986年11月にリリースしたアルバム『36.5℃』のプロデュースは甲斐さんでした。甲斐さんは水割りを手にして、次に何をやろうかというのを博多弁で話しながらライブを進めていくという、照和のライブのような感じだったんでしょうかね。そして、最後の曲は、メンバー4人がフロントに立ってこの曲を歌ったんです。

破れたハートを売り物に [Live] / 甲斐バンド

甲斐よしひろさん、松藤英男さん、田中一郎さん、大森信和さんの4人が全員マイクの前に並んで歌った最初で最後のシーンがこれでした。セッション・ミュージシャンや関係者がステージに数百本のバラを投げ入れて、メンバーがそれをお客さんに投げ返すというシーンが繰り広げられました。その後がまだあったんですよ。六本木・インクスティックというクラブで朝までパーティが行われて、脱退した長岡和弘さんが加わって「悪い噂」を演奏した。これが1986年の最後のシーンでした。

 

田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」、甲斐バンド栄光の軌跡Part4。1970~1980年代にかけての新しい時代を切り開いた栄光のロックバンド・甲斐バンドの12年間を辿っております。今週は最終週でした。今流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。

甲斐バンドの『THE 甲斐バンド FINAL CONCERT "PARTY"』は、それまでのいろいろなバンドやグループの解散のイメージを変えましたね。客席から涙まじりの「やめないで!」という悲鳴が飛んで、ステージも感極まって歌えなくなるというじめっとしたシーンがなかったですね。やり切った、闘い終えたという祝祭のような結末が甲斐バンドのファイナルでした。

ずっと申し上げてますが、はっぴいえんどからBOØWYに至る過程の最重要バンド。これは僕の実感でもあるんです。黒澤スタジオでのライブの3日後に、BOØWYの初めての武道館公演「”GIGS” JUST A HERO TOUR 1986」があったんです。氷室さんが「ライブハウス武道館へようこそ!」と言ったあのライブです。それを見に行って愕然としたんです。何がというと、ビートが違った。甲斐バンドの1970年代的なビートが全くなかった。BOØWYのジャスト、タイトでドライなビートにびっくりしたんです。こんな風に時代が変わるのかと思って、自分の中でははっぴいえんどからBOØWYと位置づけができました。でも、甲斐バンドの解散の様式、ダンディズム、美学というのはBOØWYにも受け継がれたのではないでしょうか? 7月10日に横浜赤レンガ倉庫の前で甲斐バンドのライブがあります。これが見納めになるんでしょうか?

また、番組制作の加藤与佐雄にも触れておかないといけませんね。当時、加藤与佐雄さんは東海ラジオのディレクターでした。僕らは当時甲斐バンドの取材でツアー、特に名古屋に行くと朝まで飲むんです。与佐雄さんも一緒でした。明け方になって与佐雄さんの自宅に押しかけて、皆で奥様が作った味噌汁を飲んで、ホテルに帰って荷物をとって駅に行くという過ごし方をしていました。与佐雄さんは今天国にいますが、この放送を聞いて喜んでくれるのではないでしょうか。また来週。


今回紹介した甲斐バンドのCDを手にした田家秀樹


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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