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セレーナ・ゴメス「真実」を語る 心の病や難病を抱え苦しみもがいた日々

Rolling Stone Japan / 2023年1月2日 10時0分

Photo by Amanda Charchian for Rolling Stone

心の病と命を脅かす難病、タブロイド紙からの集中攻撃を経験したセレーナ・ゴメスが、かつてないほどオープンに自分の身に起きたことを、米ローリングストーン誌のカバーストーリーで打ち明けた。

セレーナ・ゴメスは、たくさんの”荷物”を抱えている。この表現は文面に限らず、比喩的にも正しいと彼女は言った。その言葉に耳を傾ける私自身、ゴメスにインタビューをするためにスーツケースを引きずりながら空港の保安検査場を通過し、カリフォルニアの青々とした丘をのぼり、水面がキラキラと輝くスイミングプールの脇を通り、ロサンゼルスにあるゴメスの自宅の豪華な衣装室兼メイク室にたどり着いた。床には花柄のラグが敷かれ、開け放たれた窓からは中庭が見渡せる。スーツケースを置いた私は、もしかしたら少し汗をかいていたかもしれない。それにもかかわらず、ゴメスは私を優しく抱きしめると、部屋を出て足早に廊下を歩いていった。足を止めて、若い女性にエアコンの温度調整を指示する。部屋に戻ると、ゴメスは革張りの白いラウンジチェアに腰を下ろしておしゃべりをはじめた。私が到着する少し前までアサイーボウルを食べていた彼女は、口の周りが紫色に染まっていることに気づいたと話す。部屋全体に自然なオーラが漂う。結局のところ、私たちは人間なのだ。汗もかけば、口もとを食べ物で汚すこともある。時には、いろんなものを背負い込む。

こうした人間らしさを温かく受け入れる懐の広さは、昔からゴメスのトレードマークだと言えるかもしれない。近年の彼女のアルバムには、「パーソナル」にはじまり、「胸を打つほど真に迫る誠実さ」で終わるような、幅広い感情が網羅されている。これらの作品は、ぐちゃぐちゃの感情とテイクアウトした中華料理、真剣な自己批判の化学反応のようなものから生まれたとゴメスは語る。「ある日スタジオに入ると、プロデューサーのみんなが『元気?』って声を掛けてくれた。『彼氏がほしい』って言うと『それなら、いまの気持ちを曲にしたら?』って提案されて、それもアリかもって思った。だからこの曲は、彼氏がほしい気持ちを歌った曲なの」と、ゴメスは2020年にリリースされた粒揃いの秀作『Rare』の収録曲の中でも傑出した存在感を放つ「Boyfriend」について語った。このアルバムは、自身の感情に折り合いをつけるプロセスを進行形で描くと同時に、リスナーを夢中にさせるようなポップなフックがそこここに散りばめられている。

歌手だけでなく、ゴメスには女優としての顔もある。どんなプロジェクトであろうと、彼女には最高のパフォーマンスを発揮する才能があるのだ。破天荒なパリピ女子を描いた『スプリング・ブレイカーズ』(2013)に若干の”まともさ”をもたらした一方で、ウォール街が舞台の『マネー・ショート 華麗なる大逆転』(2015)では本人役で登場して「シンセティックCDO」(訳注:証券化商品のひとつ)の意味を解説。ミステリー・コメディドラマ『マーダーズ・イン・ビルディング』(2021)では共演者のスティーブ・マーティンとマーティン・ショートのかたわらで皮肉屋のイマドキの若い女性を演じた。「セレーナのコミカルでありながらも抑えられた演技と、頭のおかしなふたりの老人を相手にしているような冷めたキャラクターは、いまの時代感覚にぴったりです」とマーティン・ショートはセレーナを絶賛した。「なんと言っても、セレーナのInstagramアカウントには3億6000万人のフォロワーがいるんです。それは、誰もが彼女の”本物感”に気づいているからです。多くのスーパースターと違って彼女は、『私はあなたと同じくらい弱くて脆い存在』と言える勇気を持っています。セレーナの強みは、その偽りのなさにあるのです」

2020年8月に米HBO Maxにてスタートした、ゴメスがホストを務める料理番組『Selena + Chef』においても、彼女はどこまでも自然体だった。虹色の包丁で危うく指を切り落としそうになったり、「オエッ」と言いながらヌルヌルのタコを切ったり、恐怖の表情を浮かべながら炎に包まれた謎の物体をオーブンから取り出したりと、ありのままの姿で視聴者を楽しませてくれた。ありのままの姿といえば、ゴメスがプロデュースする美容ブランドRare Beautyは、「インナービューティーを慈しむ」というモットーを掲げる数少ないブランドのひとつだ。Rare Beautyの素晴らしさは、そのインクルーシビティ(展開しているファンデーションのシェード数は、なんと48色)とチャリティとしての側面にある。実際、ブランドの収益の一部は、しかるべきメンタルヘルスサービスを受けられないコミュニティを支援するための取り組みに寄付される。ゴメス本人も、メンタルヘルスという問題を抱えている。そのひとつがループス腎炎——自己免疫疾患のひとつである全身性エリテマトーデス(SLE)に合併して生じる腎臓病だ。ゴメスは2017年に腎臓移植手術を受けたが、移植された腎臓が手術後に予期せぬ動きし、動脈を傷つけた。医師たちが駆けつけて6時間にわたる緊急手術が行われ、一命をとりとめることができた。それに加えて、メディアによって大々的に取り上げられたジャスティン・ビーバーやザ・ウィークエンドとの破局や双極性障害(訳注:気分が高まる躁状態と気分が落ち込むうつ状態が繰り返しあらわれる精神疾患)と診断されたこと——ゴメスは、マイリー・サイラスがSNSでライブ配信している番組『Bright Minded: Live with Miley!』にゲスト出演した際に双極性障害であることを明かした——をはじめ、ゴメスはたくさんの荷物を抱えている。その一方で彼女は、さまざまなメディアに登場しては、根も歯もない噂や憶測に対する嫌悪感について包み隠さず語り、優しさと節度の大切さを訴えた。SNSの弊害を糾弾しながらも、彼女のフォロワーは凄まじいスピードで増え続けた。ゴメスほど名声の象徴に激しく抗いながらも自らの矛盾を抱え、数多くのステージで涙をこらえてきた著名人を私は知らない(「泣き顔が可愛くないから」と言うゴメス本人の言葉は有名だが、もちろんそれは事実ではない)。


仮に世間の人々がセレーナ・ゴメスという人間のすべてを知っていると勘違いしても無理はない。それくらいゴメスは、偽りのない自分の姿を世間にさらし続けてきたのだ。それでもゴメスのことはすべて知っていると言う人がいるなら、11月4日にApple TV+での配信がはじまったドキュメンタリー『セレーナ・ゴメス:My Mind and Me』をぜひ観ていただきたい。本作がゴメスを持ち上げるためのステルスマーケティング的なもの、あるいは出演者本人の虚栄心を満足させるためのものであるという予想は、開始5分で見事に裏切られるはずだ。そこには、精神疾患を理由にアルバム『Revival』(2015)を提げた2016年のツアーを中断し、治療施設に入院することになったゴメスの痛みと悲しみが包み隠さず映し出されている。その後もカメラはゴメスを追い続け、1時間強にわたって精神疾患に苦しむひとりの人間の姿を私たちに見せつける。ベッドから起き上がることができないゴメスを捉えたシーンもあれば、友人たちに暴言を吐くシーンもある。家の中をあてもなくさまようシーンもあれば、プロモーション活動中に神経衰弱に陥るシーンもある。そこには、苛立ちをにじませながら、押し寄せたメディアに対応するゴメスがいる。



ゴメスは、『セレーナ・ゴメス:My Mind and Me』の公開を危うくキャンセルするところだった。それほどまでに本作の内容は生々しかったのだ。「とにかく不安で仕方がない」。そう言いながら、彼女はラウンジチェアの上で裸足の足を抱えた。「このドキュメンタリーというプラットフォームを使って、もっと大きな目的のために、少しだけ自分を犠牲にしているような気がする。あまり大袈裟に考えてほしくないんだけど、もう少しで公開を取り止めようと思ったの。本当のことを言うと、数週間前まで自信が持てなかった」



PHOTOGRAPHY BY AMANDA CHARCHIAN FOR ROLLING STONE. BODYSUIT BY WOLFORD. EARRINGS AND BANGLES BY LOUISE OLSEN. CUFFS BY SIDNEY GARBER.

まずここで『セレーナ・ゴメス:My Mind and Me』が生まれた経緯を最初からたどってみよう。それはゴメスが友人たちと一緒にメキシコを旅行していたときのことだった。旅先ではしゃぎ回る友人たちをよそに、ゴメスは部屋に引きこもって貪るようにドキュメンタリーを観ていた(ゴメスはいつもそうなのだ)。すると、1991年に公開されたマドンナのドキュメンタリー『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』のトレイラーが流れてきた。ゴメスは興味を持ち、本編を観ることにした。その直後、彼女は「家の外に飛び出して、ピニャ・コラーダ片手に遊んでいた友人たちに『みんな! これを観ないとダメ!』」と言ったそうだ。その後、ゴメスは同作を手がけた映画監督のアレック・ケシシアンに連絡を取り——偶然にもケシシアン監督は、ゴメスのマネージャーのアリーン・ケシシアンの兄だった——「Hands to Myself」(2015)のMV撮影を依頼した。撮影は順調に終わり、ふたりは次のプロジェクトを検討しはじめた。ちょうどRevivalツアーを企画していたゴメスは、『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』のような、アート感あふれるコンサート・ドキュメンタリーに挑戦したいと考えていた。その一方でケシシアン監督は、アーティストに関するドキュメンタリーをもう一度制作することにあまり前向きではなかった。それでも彼は、ゴメスがティーンのカリスマから正真正銘のアーティストへと変わる宿命的な瞬間をカメラに収めることに興味を持った。当時誰もがそうだったように、監督もゴメスの生い立ちくらいはなんとなく知っていた。ゴメスは、アメリカ・テキサス州グランドプレーリー出身だ。1992年に当時まだ高校生だった両親の間に生まれたが、高校生のふたりには、まだ親になる覚悟ができていなかった。そこでゴメスは、母親のマンディ・ティーフィーと彼女の両親と暮らしはじめた。女優志望のティーフィーは、劇場での仕事の合間を縫って、デイヴ&バスターズ(訳注:レストランやバーが併設された大型ゲームセンター)やスターバックスで働いた。それでも生活は苦しく、夕食にラーメンが買えるくらいの小銭はないかと、車の座席の隙間を探すこともあった。そんなある日、ゴメスは母親に連れられて彼女が働いていた地元の劇場を訪れた。これが芝居との初めての出会いだった。「ママはとてもカッコよかった」とゴメスは振り返る。「ショートカットの髪にヘアクリップをつけて、まさに90年代のドリュー・バリモアって感じ。ママは、自分で自分の衣装を作っていた。それを見て、『私もママと同じ仕事がしたい!』って言った。するとママは『いいわよ。もしかしたら、演劇教室に入れてもらえるかもしれない』って言うの。だから私は、『そうじゃなくて、私はテレビに出たいの』って答えた」


最初の仕事は、ジョーズ・クラブ・シャックというシーフードレストランチェーンのコマーシャルだった。7歳になると——両親の離婚から2年後——子供向け番組『バーニー&フレンズ』に出演するチャンスをつかんだ。ちょうどテキサス州ダラス郊外で撮影が行われていたのだ。子役デビューを果たしたゴメスは、逃避のような感覚を味わった。「現実世界を生きる必要がなかった」と彼女は言う。「だってバーニー(訳注:番組の主人公の紫色のティラノサウルス)の世界で遊ぶことができたんだから。バーニーの世界は本当に楽しかった。それと、ケータリングサービスがとにかく最高だった」。10歳になると、子供向け番組を卒業した(「歳を取りすぎていることを理由に降板させられた。あのころから私は、芸能界のルールの中で生きていたのね」とゴメスは言う)。その後は、ディズニーがくれる日雇いの仕事で食いつなぎ、テキサスとロサンゼルスを往復する日々を送った。ロサンゼルスのダウンタウンでは、『バーニー&フレンズ』で共演したデミ・ロヴァートと彼女の家族とワンルームのロフトをシェアした。地元のグランドプレーリーに戻ったころにはすっかり内気になり、自分が周囲からのけ者扱いされているような気がした。「中学校でクラスのみんなに『バーニー&フレンズ』に出てました、なんて言っても誰も相手にしてくれない」とゴメスは言った。15歳で米ディズニー・チャンネルのドラマ『ウェイバリー通りのウィザードたち』の主要キャストの座を勝ち取ると、ゴメスは二度と戻らないつもりでテキサスを離れた。とうとう夢が叶ったのだ——撮影スタジオの外にパパラッチが集まるようになるまでは。それから数年とたたないうちに、初めての熱愛報道が世界中を駆け巡った。タブロイド紙はゴメスをからかい、恋人との関係を事細かに報じた。父親はゴメスをできる限りサポートをしようとしたが、「パパは、芸能界には関わりたくないと思っていた。だから実際は、ママと私の二人三脚だった」

ドキュメンタリーを撮影するにあたり、ケシシアン監督はカメラの前に自分をさらけ出すことに対してゴメスがどこまで本気かわからなかったと語った。「私はセレーナにこう言ったんだ。『撮影してほしいと言うのであれば、私がいついかなるときも君を撮影できることを約束してくれないといけない。マドンナもそうしてくれた』。すると彼女は『いいわ。約束する』と答えた。私は念を押すつもりで『君はまだ24歳だ。自分が約束しようとしていることの重大さをわかってほしい』と言った。そこで私たちはトライアルを実施した。その言葉どおり、セレーナは私にすべてを撮影させてくれた」


PHOTOGRAPHY BY AMANDA CHARCHIAN FOR ROLLING STONE. DRESS BY GABRIELA HEARST. EARRINGS BY JOANNA LAURA CONSTANTINE. RING BY MONICA VINADER X KATE YOUNG.

ケシシアン監督が言う”すべて”には、かなり深刻なものも含まれていた。「当時セレーナは、精神面でいろんなものを抱えていた。そうした姿をカメラの前でさらけ出すことに対して、彼女が戸惑いを感じていることがありありと伝わってきた」と監督は言った。その後、ゴメスはRevivalツアーを中断。ドキュメンタリー企画はお蔵入りとなった。

衣装室兼メイク室でのインタビューに話を戻そう。「みんなには本当のことを知ってもらいたいから、正直に言うわ。私は、いままで4つの施設で治療を受けたことがある」とゴメスは言った。「情緒不安定になりはじめたのは、20代前半のころだったと思う。自分の感情をコントロールできなくなっていることに気づいたの。当時はそれが良いことなのか、悪いことなのかもわからなかった」。ささいなことをきっかけに、気分が高まる躁状態と気分が落ち込むうつ状態の繰り返しが数週間、ときには数カ月間続くこともあった。眠れない夜が何日も続いた。躁状態になると、「みんなに車を買ってあげないと」という強迫観念のようなものを感じたそうだ。「私には芸能人としての名声があるから、それをいいことに使ってみんなと分かち合いたい」と考えたのだ。ゴメスの名声がこうした感情をより複雑にした。躁状態の後は、決まって気分が落ち込んだ。「まずは暗い気持ちになって、孤立感が湧いてくる」とゴメスは話す。「うつ状態がはじまると、ベッドから出られなくなってしまうの。話しかけられることが耐えられなかった。友人たちは私のことを心配して食事を運んできてくれたけど、私の身に何が起きているのか、誰もわからなかった。何週間もベッドに寝たきりのこともあれば、家の階段を降りるだけで息が切れることもあった」。自殺を試みたことはなかったが、自殺という考えが何年も頭から離れなかったと明かした。「私さえいなければ、世界はもっと良い場所になると思った」と、ゴメスは何でもないことのように言った。


ゴメスには、ストレスの原因として思い当たるものがいくつかあった。当時の彼女は、正真正銘のアーティストとしての”声”を見つけられずにいたのだ。ディズニー子役という華やかなイメージから脱皮し、ファンたちと一緒に歳を重ねたいと願っていた。健康状態も不安定だった。気づくと、故郷のグランドプレーリーで思い描いた人生とはまったく違うものを歩んでいた。「子供のころは、25歳で結婚すると思っていた」と彼女は言う。「でも、実際は結婚なんて夢のまた夢だった。バカみたいに聞こえるかもしれないけど、自分の人生は終わったと本気で思っていた」

ゴメスは、名声を受け入れながら自分の道を歩み続ける同業者たちにこうした不安を打ち明けることができなかった。「セレブのイケてる娘たちのグループには、いつもなじめずにいた。芸能人の友達はテイラー(・スウィフト)だけ。芸能界は自分の居場所じゃないように感じていたのを覚えている。周りのみんなが充実した人生を送っていた。私も自分の立場には満足していたし、すごく幸せだった。でも……物質的に豊かだからといって、本当に幸せなのかな? って思うようになった」とゴメスは続ける。「自分が何者かわからなくなってしまったせいで、自分のことが好きになれなかった」

2018年には、自分にしか聞こえない声や音に悩まされるほどのストレスを抱えていた。精神的な負担は日を追うごとに増え、ついに心が悲鳴をあげた。ゴメスは当時のことを断片的にしか覚えていないと言うが、最終的に治療施設に入院したことは覚えている。何カ月間も被害妄想に取りつかれながら、誰のことも信用できなかった。周りの人はみんな敵だと思っていたのだ。ゴメスの友人たちは、当時の彼女はまったくの別人だったと振り返る。母親のティーフィーは、ゴシップサイトで娘の入院を知った。


PHOTOGRAPHY BY AMANDA CHARCHIAN FOR ROLLING STONE. DRESS BY PROENZA SCHOULER. CHOKER BY SIDNEY GARBER. EARRINGS BY COMPLETEDWORKS.

精神疾患の恐ろしい点は、誰にも終わりが見えないことだとゴメスは言った。たった数日間あるいは数週間で治る人もいれば、一生治らない人がいるのも事実だ。ゴメスは、自分がゆっくりと「精神疾患から抜け出しつつある」と感じた。医師から双極性障害と診断されたおかげで、これまでの不調の理由もわかった。だがそれは、壮絶な薬物治療のはじまりでもあった。確立された治療法がないため、医師たちはどれかひとつでも効果のあるものがあれば、という思いで大量の薬物をゴメスに投与した。

治療はある程度成功した。その代わり「抜け殻のようになってしまった」と、ゴメスは薬物の副作用の影響を明かした。「そこにあったはずの自分というものが、いなくなっていた」。退院後、ゴメスはひとりの精神科医のもとを訪れた。その医師は、彼女が必要以上の薬物を投与されていることに気づき、薬物を2種類まで絞り込んだ。するとゴメスは、徐々に自分を取り戻していった。「先生は私を快方へ導いてくれた」と彼女は話す。「それでも、あまりに多くの薬を飲んでいたせいで、体に溜まった薬物を体外に出さなければいけなかった。頭がぼんやりしていたので、言葉を覚え直す必要もあった。話しの途中で何をしゃべっていたか忘れることもあった。自分が双極性障害を患っていること、そしてこの病気と生きていくことを受け入れるのはとても大変だった」


そんなゴメスの支えとなったのが慈善活動だった。現実世界について誰かに話すことで、自分が生きている感覚を取り戻し、頭の中の世界から抜け出せることに気づいたのだ——たとえそれが一瞬であっても。ゴメスは、政治にも関心を持つようになった。メキシコ人の祖母がトラックの荷台に身を潜めながらアメリカに入国したことを公の場で語る一方で、ブラック・ライブズ・マター運動の共同創始者であるアリシア・ガルザや「インターセクショナリティ」(訳注:人種や性別、性的指向、階級、国籍、障がいなどの属性が交差したときに起こる差別や不利益を理解するための枠組み)という言葉を作った人権活動家のキンバリー・クレンショーなどとSNSで定期的にコラボレーションを行った。さらには、アメリカの移民問題に焦点を置いたドキュメンタリー『Living Undocumented(原題)』(2019)と自殺願望やメンタルヘルスに悩む若者たちにエールを贈るミステリードラマ『13の理由』(2017)の共同エグエクティブ・プロデューサーを務め、自殺を理想化していると避難された『13の理由』を擁護した。このほかにもチャリティ基金「レア・インパクト・ファンド」を設立。この基金は、アメリカの学校におけるメンタルヘルス教育の実施とメンタルヘルスの問題に対する世間の偏見と闘うため、今後10年で1億ドルの寄付金を集めるという目標を掲げている。2022年5月にはホワイトハウスを訪問してジル・バイデン大統領夫人とビベック・マーシー医務総監と面会。マーシー医務総監と共同でプロジェクトを立ち上げた。「セレーナの行動には、他の誰かだけでなく、彼女自身のためにもなるような、とてもパワフルな力があります」とマーシー医務総監は語った。「メンタルヘルスの問題を抱えている人は、自尊心ないし自己肯定感を失いやすい傾向にあります。そうなってしまうと、誰かに助けを求めることがますます難しくなり、孤独と孤立の負のスパイラルに取り込まれてしまうのです。行政には、そのスパイラルを壊す力があります」

「もっと大きな目的のために、少しだけ自分を犠牲にしているような気がする」とゴメスは自身のドキュメンタリーについて語った。「本当のことを言うと、もう少しで公開を取り止めようと思った」

セレーナが孤独と孤立の負のスパイラルと闘う姿は、『セレーナ・ゴメス:My Mind and Me』に数多く収められている。2019年には——双極性障害と診断された後——ケニヤの若い女性の教育とエンパワーメントを掲げるWEファンデーションの代理人として同地を訪問。彼女自身が建設を支援した学校を訪れた。ケシシアン監督もこの旅に同行した。帰国後も、監督はカメラを回し続けた。パンデミック中も、ゴメスのループス腎炎が再発したときも、その手を止めることはなかった。精神疾患と闘うゴメスを見ながら、監督はこのまま撮影を続けていいのかと疑問に思ったそうだ。「撮影でセレーナの自宅にいると、突然彼女が泣き出してしまった」と監督は言う。「スマホ片手に私が『撮影を中断したほうがいいんじゃないか?』と訊ねると、『いいの。お願いだからカメラを止めないで』と言われた」

セレーナは、ケシシアン監督に自分の日記を託した。その一部は、ナレーションとして劇中に登場する。撮影を重ねるにつれて、監督はあることに気づきはじめたと語る。「私は、この作品が双極性障害と診断された現実を受け入れようとする若い女性の葛藤を描く深遠なドキュメンタリーであると考えるようになった。セレーナは治療施設を退院したばかりで、自分はまだ完治しているどころか、回復の最初の段階にあるという現実を必死で受け入れようとしていた。同時の彼女は、このドキュメンタリーを通じて自分のことを語り、心の底から誰かの役に立ちたいと思っている。誰かの模範になろうとする一方で、彼女自身がまだ病を克服したとはいえない状態にある——そこに一種の緊張感があるのだ」

ゴメスは、自分が双極性障害を完全に克服できないかもしれない、ということを自覚している。この精神疾患は、いつ再発するともわからないのだ。双極性障害は、これからもずっと彼女について回るだろう。完成したドキュメンタリーを数回だけ観たと、ゴメスは言った。観た瞬間からその圧倒的なポテンシャルに気づく一方で、本当に公開するべきかどうか悩んだと言う。「ドキュメンタリーが大切なメッセージを伝えようとしていることはわかるけど、それを伝えるのが私でいいのかしら、と思った。自分に自信が持てなかった」とゴメスは心の内を明かした。「誰かに『セレーナ、このドキュメンタリーはあまりにも生々しい』と言ってほしかった。その代わり、みんなから『個人的にはすごく感動したけど、本当に公開して大丈夫?』と言われた」。ようやくApple TV+がプレミア上映を行うことになった。ゴメス本人は出席しなかったが、後からオーディエンスの反応を知った。同作が与えた感情面でのインパクトは明白だった。「『ひとりの人がこんなに感動してくれるなら、この作品が世に出たときの効果は計り知れないかもしれない』と思ったの。だから、最終的には公開に踏み切った」

ゴメスは、それが正しい判断であってほしいと願う。インタビューの途中で、彼女にドキュメンタリーの率直な感想を求められた。観る人を考えさせてくれる、パワフルな作品だと思ったと、私は正直に言った。だが次の瞬間、気づくと私は自分のパニック障害について話しはじめていた。パンデミック中に、私は時おりパニック発作に襲われるようになっていた。発作は日に日に悪化し、とうとう自分で自分をコントロールできなくなってしまった。自分の心が自分の身体を痛めつけるようになった。それは頭の中で起きたのではなく、本物の傷として残った。それはあまりに苦痛で、自分でも手に負えなくなっていた。このサイクルから一生抜け出せないのかもしれないと思ったほどだ。私もゴメスのように医師から大量の薬物を投与されたことを明かした。気づくと私は、精神疾患のサイクルから抜け出して心の病と向き合い、体内の薬物を排出することがいかに大変だったかを話していた。

こんな話をするつもりはなかった。この記事の主役はゴメスなのだ。だが、これこそまさに彼女がねらっていたことなのかもしれない。彼女は、誰かが自分のストーリーに共感し、それを自身のストーリーとして解釈することを期待していたのだ。延々と話を続けながら、私はゴメスがそのねらいを見事に達成したことに気づいた。「あなたは今日、私にかけがえのない贈り物をくれた」と、私が口をつぐむとゴメスは静かに言った。「あなたは、心の病と闘うことの辛さがわかると言ってくれた。私には、その言葉だけで十分。あなたや私と同じ経験をしていながら、どうすることもできずにいる人たちがいることを私は知っている。私は、こうしたことが普通に受け入れられる世の中になってほしいと思っている」


10月某日午後、カリフォルニア州パロアルト。晴れ渡った空を背景にSUV車から降りると、ゴメスはハイヒールを鳴らしながら木製のスロープの上を歩き、裏口からスタンフォード大学医学部学術医学センターの中に吸い込まれていった。スタイリッシュな講義ホールには、「最先端のメンタルヘルス治療に関するアウェアネスの向上」を掲げるメンタルヘルスケア・イノベーション・サミットの参加者が100人近く集まっている——ロビン・ウィリアムズのご子息であるカリフォルニア州の公衆衛生局長官をはじめ、そうそうたる顔ぶればかりだ。この日、彼らはゴメスと彼女の美容ブランドRare Beautyのソーシャルインパクト事業部長を務めるエリーズ・コーエンの話を聞くために集まった。ふたりは非現実的な美の基準(ゴメスは、メイクに3時間を費やした挙句、「こんなの私じゃない」と思ったときの経験などを語った)やスティグマフリーな会社、さらにはゴメス本人が心の健康を維持するためにやっていることなどについて語った(講演前日の夜、ゴメスは滞在先のホテルのスイートルームに引きこもっていつもようにドラマ『シッツ・クリーク』を観る代わりに、ロビーに降りてチームのメンバーたちと焚き火を囲んだ)。メンタルヘルスは、もはやゴメスの人生の小さな一部ではなかった。彼女は、研究者やメンタルヘルスの専門家たちと人々のメンタルヘルスを向上させるためのありとあらゆる方法について議論するまでになったのだ。「実際、レア・インパクト・ファンドを通じて数え切れないほどのメンタルヘルス団体やリソースとやり取りをしている」と、スイートルームを訪れた私にゴメスは語った。柔らかなニットを何枚か重ね着した彼女の前には、朝食の残骸が散らばっている。「私は、こういう話題がすごく好き」とゴメスは言った。自らのストーリーをより大きな目的に捧げるため、彼女は自分がその”顔”となることを選んだ。


PHOTOGRAPHY BY AMANDA CHARCHIAN FOR ROLLING STONE. BODYSUIT BY WOLFORD. EARRINGS AND BANGLES BY LOUISE OLSEN. CUFFS BY SIDNEY GARBER.

ゴメスがメンタルヘルス活動の”顔”であることを指摘すると、彼女は恥ずかしそうな表情を浮かべた。「私は自分がそういう活動の”顔”だなんて思ってもいないし、進んでそうなりたいとも思わない。私にもいろいろ思うところがあるから」と彼女は認める。「でも、ただ座って『私って最高でしょ? こんなものも、あんなものも持っているの』と自分のブランドのことばかり話すのではなく——そんな人には、みんなうんざりしていると思うから——本当に大切なことについて話している自分を誇らしいと思える」とゴメスは言った。以前、彼女は私にこんなことを言った。「私がここにいることには理由がある、と常に自分に言い聞かせている。時々口に出してみると安っぽく聞こえるかもしれないけれど、医療や心のバランス、暗いことばかりささやくもうひとりの自分との会話に関する知識や経験だけでは、とてもここまでたどりつけなかったと思うから」。ゴメスは、何が自分の天命であるかを理解しているのだ。

スタンフォード大学での講義が終わると、ゴメスは控えの間に残ってメンタルヘルス分野の権威たちと言葉を交わした。立ち話が長くなるにつれて足が疲れたのだろうか、ハイヒールを脱いで裸足になると、近い将来、チャットボットを使ったセラピーが行われるようになるかもしれないという話題に熱心に耳を傾けた(最悪のアイデアのように聞こえるかもしれないが、ウィスコンシン州の住民の98%がしかるべきメンタルケアにアクセスできないことを踏まえると、頭から否定することもできない)。ゴメスは多くを語らない。自分は専門家ではなく、話を聞くためにここにいるというスタンスを貫いているのだ。それでも、誰かが自分自身のメンタルヘルスとの闘いを打ち明けはじめると、ゴメスは感謝の気持ちをあらわにしながら、相手の言葉を優しく受け止める。

残念ながらゴメスは、そうした優しさと受容の感情を自分自身に向けられずにいる。「私はまだ回復したわけではないけど、幸せな生活に戻ることはできた」と、自宅でのインタビューの一週間前にゴメスは私に言った。その際、ゴメスは移植された腎臓に寿命があることを指摘した。彼女の腎臓の寿命は、たった30年と言われている。「それでも構わない」とゴメスは続ける。「いつかは”安らかに眠りにつく”日が来るのだから」と言うと、妊娠を望んでいる友人を訪れたときのことを語ってくれた。友人と会った直後、ゴメスは車の中で号泣してしまった。ゴメスは、いまも双極性障害の治療のために2種類の薬を服用している。薬を服用している限り、自分の子供を妊娠できる可能性はきわめて低い。それでも彼女は、母親になるという希望を捨てていない。「私は、母親になるために生まれたの。いつか必ず、その夢を叶えてみせる」と言った。ゴメスは、繰り返し見る夢についても語ってくれた。夢の中で彼女は旅行をしていて、近くにはいつも水の存在があると言う。さまざまな声が降りてきて、彼女を責めたり、失敗から学んだのかと問い詰めたり、努力が足りない、あるいはがんばり過ぎだと言って彼女を叱責するそうだ。「双極性障害が理由かどうかはわからないけれど、私を覆っている何かが暗い意味で私を謙虚にさせているのかもしれない」と明かした。

ゴメスの言葉を借りれば、彼女は「双極性障害と友達になる」努力を続けてきた。弁証法的行動療法や認知行動療法を受けたり、教祖やセラピストを訪問したりした。「自分よりも大きな力」を信じたり、母親に歩み寄ったりした——「ママは自分のメンタルヘルスとの闘いについてオープンに語ってくれた」とゴメスは言った。現在は、母親と一緒にWondermindというメンタルヘルス・プラットフォームを立ち上げようとしている。ちょっとしたユーモアとともに現状を受け入れられるようにもなった。「新しい腎臓を”フレッド”と命名したの」と彼女は続ける。「名前の由来は、俳優のフレッド・アーミセン。『ポートランディア』(訳注:アーミセンが主演するコメディドラマ)の大ファンなの。本人に会ったことはないけどね。でも、いつか彼がこのことを知って『変なの』って思ってくれることを密かに期待している」。自分の心の健康を細かくチェックすることも忘れない。今年の9月、ポッドキャスト番組に出演したヘイリー・ビーバーが、”ゴメスの元カレ(ジャスティン・ビーバー)の妻”としてゴメスのファンから受けてきた数々のバッシングに言及し、タブロイド紙を沸かせた。それを受けてゴメスは、TikTokを使ってファンに思いやりのある行動を呼びかけることで事態の沈静化を図った。ゴメスは、作り物のドラマから脱却するためのひとつの事例として、この出来事をあえて持ち出したようだ。「誰かが私のことを話題にして、それから2日間はずっと嫌な気分だった」と、ゴメスは元カレに言及せずに言った。昔の彼女であれば何カ月も思い悩んだかもしれないが、いまは違う。「私はただ、『みんな、自分以外の人にも優しくして。現実世界で起きていることだけに集中してね』って言いたかったの(数週間後、ゴメスとヘイリー・ビーバーがロサンゼルスのガラパーティに仲良く出席している姿が目撃された)。

TikTokを除いて、ゴメスはSNSを使わないことで有名だ。SNSアプリを削除し、スマホのパスワードをアシスタントに託してからもう何年もたつ。アシスタントは、ゴメスから預かった画像やテキストを彼女の代わりにTikTokに投稿しているのだ。ゴメスは、昔大切だったものを見るようにスマホを持ち上げた。「自分が最後に何を検索したか忘れちゃった」と言うと、「気になるな、なんだっけ」と履歴をチェックしはじめた。指で画面を操りながら、ニンマリと笑う。最後に検索したのは「エミー賞にぴったりのヘアアレンジ」だった。その前の検索ワードは不動産。ゴメスは、3週間後にニューヨークに引っ越す。来年1月から『マーダーズ・イン・ビルディング』シーズン3の撮影がはじまるのだ。同作の台本を初めて読んだときは、ひとりの若い女性とふたりの高齢男性の主演トリオという図式が世間からどう思われるか不安だったと言う。だがいまは、それがいらぬ心配だったと笑う。「撮影現場は和気あいあいとした雰囲気で、みんなが協力的です」と、スティーブ・マーティンとマーティン・ショートとともに同作の製作を任されたジョン・ホフマン監督は語る。さらに監督は、ゴメスと自分、そしてマーティンとショートは、親娘のような関係だと言い添えた。シーズン1の撮影がはじまったとき、監督はゴメスが精神的にギリギリの状態だったことを知らなかった。「『セレーナ・ゴメス:My Mind and Me』のトレイラーを観た瞬間、泣いてしまった」と監督は明かした。


ニューヨークのような大都会では、人々は滅多に干渉し合わない。ゴメスがこの街に惹かれるのも、そっとしておいてほしいからだ。「『ロサンゼルスが嫌いだって言うのは、もういい加減にしなさい』ってよく怒られるの」とゴメスは申し訳なさそうに言う。「でも、私のニューヨークでのスケジュールはとにかく最高。ニューヨークには私なりのルーティンがあるし、行きつけのジムやコーヒーショップもある。ニューヨークにいれば散歩もできるし、深呼吸をすることもできる。街そのものやそこで生きる人々から刺激をもらえるの」

ゴメスは、スペイン語の映画の撮影に向けて、スペイン語教室にも通う予定だ。曲を書くライティングセッションにも参加し、24曲あるニューアルバムの収録曲候補を仕上げる。レコーディングは、今年の年末からはじめるかもしれないとゴメスは言った。ゴメスは、ドキュメンタリーの劇中歌でもある、音楽製作ユニット・プロダクションのザ・モンスターズ・アンド・ザ・ストレンジャーズとの共作「My Mind and Me」を誇りに思っている。その一方で、24の新曲がこうしてこの世に存在し、ゴメスにもっと他のメッセージを伝えたいと思わせるのは、彼女の現在の心の状態に依るところが大きい。「『My Mind and Me』は、少し悲しい曲なの」とゴメスは解説する。「でも、私の人生のドキュメンタリー的な側面にピリオドを打つ素敵な方法でもある。この先は、私が自分の人生を謳歌したり、デートをしたり、自分との会話を楽しんだりする、明るいチャプターが待っているはずだから。ニューアルバムは、『セレーナはもうあの場所から抜け出せたのね。いまは自分の人生を生きているんだ』と思ってもらえるような作品になると思う」


PHOTOGRAPHY BY AMANDA CHARCHIAN FOR ROLLING STONE. DRESS BY SELF-PORTRAIT. GEMSTONE EARRINGS BY MONICA VINADER X KATE YOUNG

7月22日にゴメスは30歳の誕生日を迎えた。そこで彼女は、自分のためにパーティを開くことにした。「30までには結婚していると思ったから、自分で結婚式をあげることにした」と、自虐的に言う。20代のゴメスにとってかけがえのない人々(いまも連絡を取り合っている人も、疎遠になってしまった人も)を全員招待した。こうした人々と一緒に20代を称え、別れを告げたかったのだ。パーティは、カリフォルニア州マリブの個人宅を貸し切って行われた。角張ったコンクリートの外観が特徴的なモダンな建物は、赤いバラとロウソクの灯りによって優しい印象に変わった。人々はダンスを楽しんだ。ゴメスが着用したピンク色のヴェルサーチのドレスをはじめ、誰もが美しく着飾っていた。エレガントでスタイリッシュなパーティだったと、ゴメスは振り返る。大好きなマイリー・サイラスと、ゴメスの妹のグレイシー、腎臓ドナーのフランシア・ライサ、カミラ・カベロ、ビリー・アイリッシュ、オリヴィア・ロドリゴなどが駆けつけた。そしてもちろん、バーニーをモチーフにした誕生日ケーキも登場した。「ドリンクもおしゃれで、本当に素敵なパーティだった。すると、友達のカーラ(・デルヴィーニュ)がストリッパーたちを連れてきたの」とゴメスは楽しそうに笑いながら言った。「だから、エレガンスと狂乱がひとつになったパーティだったと言えるかもしれないわね」

私たちは、30歳という節目がゴメスにとっての再出発になってほしいと願わずにはいられない。だが、心の病というものは、そう簡単に克服できるものではない——ゴメス本人もこの点は重々承知だ。自分の成長が迷いのない直線的なものであるかと自問すること、ひいては自分がリバイバル——仮にそのようなものが存在するのなら——の真っただ中にあるという考えに抗うことは、成長のしるしなのかもしれない。「私にはもう、ゼロからの再出発みたいなストーリーは残っていない」とゴメスは言った。「私は30歳になった。これからもいろんなことを経験しながら生きていく」。希望の兆しがあるとしたら、それは次のようなものかもしれない。「心の病がなければ、私はここにいない、と自分に言い続けている。いま私がここにいるのは、ループス腎炎や双極性障害のおかげ。こうした出来事がなければ、いまごろは着飾ることしか頭にないウザい人間になっていたと思う。そんな自分を想像するだけで残念な気分になる」。たまには車の中でアデルの「I Drink Wine」を大音量でかけながら「自分自身を乗り越えられたらいいのに」と歌うのもいいだろう。「人生、山あり谷ありって感じね」とゴメスは言った。

ゴメスの人生は、彼女の手が届く限られた範囲において開かれていくだろう。ドキュメンタリーのプロモーション活動の準備はできているが、それが終わったらニューヨークに引っ越してしばらくは表に出ないつもりだとゴメスは言った。ニューヨークに借りたアパートメントの暖炉の写真を嬉しそうに私に見せる。ニューヨークの冬の「雪や身に染みるような寒さ」が好きだと言う。「ユダヤ人のおばあちゃんたちのそばにいるのが大好きなの。ブランケットにくるまって暖炉の前で本を読んだり、何かを観たりするのは最高」。その夢が叶う日は近い。きっとゴメスは本を読んだり、書き物をしたり、大好きな『ポートランディア』を観たりするのだろう。自分自身と会話をするかもしれない。居心地の良い室内でただのんびりしながら、心の健康を保つための努力も続けるだろう。「私がこんなに話すのは、しばらくの間はこのインタビューが最後かもしれない」。インタビューの終わりにゴメスは言った。「公開が楽しみだけど、私にとって過去のことになってくれたらいいな。それに、たまには雲隠れも大事よね」

帰り支度を整えると、ゴメスはもう一度私を強く抱きしめた。「世間はどう思うかな?」ドキュメンタリーの反応が気になるようだ。「それはさておき、今日はありがとう」とゴメスは言った。私も彼女に感謝の言葉を返す。インタビューを受けてくれただけでなく、私の話に耳を傾け、温かく受け止めてくれてありがとう。スーツケースを引きずりながら、私は表に出た。外は快晴だ。このストーリーはハッピーエンドではない。そもそも、このストーリーに終わりはない。ゴメスが言うように「人生、山あり谷あり」なのだ。これからも人生は続く。だからこれは終わりではない。

From Rolling Stone US.

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