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朝ドラ「虎に翼」モデルの同期生は女性初の弁護士会会長に 女性の生き方切り開く「時代の先駆者」

産経ニュース / 2024年5月7日 12時45分

事務所に掲げられていた看板。晩年まで法廷に立っていたという

昭和13(1938)年、日本で初めて高等文官司法科試験(現在の司法試験)に3人の女性が合格し、弁護士への道を開いた。このうち、のちに裁判官となった三淵嘉子(よしこ)をモデルにし、女性が社会で活躍するのが難しかった時代に前を向いて乗り越えていく様を描いたNHK連続テレビ小説(朝ドラ)「虎に翼」が人気だが、三淵と同時に合格した中田正子の人生もまた、女性の生き方を切り開く「時代の先駆者」の歩みだった。

「生意気だから落とした」

正子は三淵、久米愛とともに同年10月15日に合格、当時の新聞は快挙を大きく報じたが、この合格には「序章」があった。試験は筆記と口述の2本立て。3人の中で正子だけはその前年、筆記試験に合格(270人のうち唯一の女性)していたのだ。

「口述で不合格とされたのです。ある本の中に、当時の試験委員の言葉として『ああ、あれは生意気だったから、落としたんだよ』と記述されています」

正子の歩みを研究する鳥取市あおや郷土館学芸員の奥村寧子(やすこ)さんは語る。

また、当時のある男性弁護士は「女弁護士は商売になるか?」のタイトルで雑誌に寄稿。「女弁護士は事件解決上必要な男性的気力を欠きはしまいか? 婦人弁護士では依頼者が頼りなくおもいはしまいか?」などと記し、正子の合格にケチをつけている。

正子を不合格にしたとする試験委員の述懐の背景には、こうした女性蔑視の価値観があった。奥村さんによると、正子は「普通に答えられたので当然合格すると思っていたが、不合格だったのでびっくりした」と回顧しているといい、偏見がなければ、正子はただ一人の女性弁護士第1号となっていた可能性が大きい。

大学を渡り歩く

中田正子の旧姓は田中。明治43(1910)年、東京・小石川で、陸軍将校の父、田中国次郎、母・槙子の次女として生まれた。東京府立第二高等女学校、女子経済専門学校(現・新渡戸文化短期大学)を経て、昭和6年に日本大学法学部に選科生として入学。明治大学専門部女子部法科に移り、さらに10年4月に明治大学法学部に入学した。

正子が法律を志すようになったのは、女子経済専門学校での法律の授業の魅力だった。もともとは花嫁修業で進学した正子だが、卒業時には「もっと学問がしてみたい」と思うようになっていた。日大に進み、さらに明大女子部に移ったのは、同部を卒業すれば明大法学部に進め、高等文官試験を受験できることが分かったからだった。

「ガリガリやらなければ受からなかったわよ」。紆余曲折した正子は三淵より4歳年上、明大法学部時代は授業にはあまり出ず、自宅で朝8時から夜10時ごろまで勉強したという。

高等文官試験合格後は弁護士事務所での弁護士試補修習を経て、昭和15年7月に第一東京弁護士会に登録し弁護士活動を始めた。30歳になっていた正子は雑誌「主婦乃友」(当時)で法律相談欄を担当、毎週100通以上の相談が届き、女性を守る弁護士として大きな反響を呼んだという。

女性初の弁護士会長

しかし、正子の東京での弁護士活動は5年ほどで終わる。弁護士試補修習中だった14年11月、正子は鳥取県若桜(わかさ)町出身で、国の外郭団体の調査・研究機関に勤務していた中田吉雄と結婚。その後、吉雄は結核にかかり東京から帰郷、20年には正子も同町に移り住むことになった。

移住翌年には36歳で長女を出産、さらに吉雄が県会議員に当選し、3年後には参院議員(当時の社会党所属)にくら替え、そして次女、長男の出産と、移住後数年、正子は母として議員の妻として忙しく過ごした。

「1日に25回も街頭演説に立ったり、病気で寝込んでも病床から有権者に電話をかけて支持をお願いしたりした。吉雄は3期参院議員を務めたが、その陰には正子の力があった。投票用紙に中田正子と書く有権者もいたようです」と奥村さんは言う。

一方、弁護士としての正子は、この間も活動をやめてはいない。25年には鳥取市の中心部に「中田正子法律事務所」を開設。44年4月には鳥取県弁護士会長に選任され、日本弁護士連合会理事にもなった。ともに女性としては日本初の就任だった。

吉雄が3回目の当選を果たした34年の参院選は、次点にわずか39票差の薄氷の勝利だった。選挙後には、開票ミスがあったとして次点者が鳥取地裁に当選無効訴訟を申し立て、正子は吉雄の弁護団の一員となった。

訴訟は最終的に101票差で吉雄の勝訴が確定。正子は「弁護士として夫の役に立つとは思ってもみなかった事でした」と吉雄の追悼文に記し、正子だからこその「内助の功」を振り返っている。

正子は80歳をこえても法廷に立つなど晩年まで活躍し、平成14年、91歳で死去した。その日はくしくも高等文官司法科試験に合格したのと同じ10月15日だった。

堂々大河になる

昭和37年11月13日、正子は弁護士用の手帳「訟廷日誌」に一編の詩を書き残している。「開廷を待ちつゝ」と題した詩は、小さな川が雨や暴風のため、濁流となって河口へと流れていく様を表現し、こう結んでいる。

すべてのものに耐え すべてのものを容れてゆうゆうと流れる大河になるであらう 堂々と強い大河になるのだ

当時50歳をこえたばかり。川の流れに仮託して自らの半生を振り返り、未来への決意を示した。悠々、堂々たる人生を目標とした正子。奥村さんは「女性差別が大きかった時代、強い信念をもって生きた先駆者だった」と総括。ちなみに朝ドラの登場人物に関しては「正子をそのままモデルとした人物はいないのでは」と話した。

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