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水が引くまで病院に1週間、いかだから川に転落も 話の肖像画 落語家・桂文枝<5> 

産経ニュース / 2024年5月5日 10時0分

ジェーン台風で陸に打ち上げられた船=昭和25年9月、大阪・築港

《堺の大叔父宅から母と移ったのは大阪市大正区の製材所の一角にある3畳一間だった》

母は製材所の手伝い仕事をするようになりました。周辺は大阪市でもはずれの土地で、夜になると真っ暗になる寂しい場所。母が仕事をしている間、僕は3畳間でひとりぼっち。母の帰りをじっと待つしかありません。その製材所の社長も僕にとっては怖い人でしたねぇ。

《大阪市立北恩加島(おかじま)小学校に入学したのは昭和25年4月》

小学校近くに芝居小屋があって、ときどき一座の子供(子役)が転校してくる。彼らは小屋で生活してるんですよ。彼らに僕のほうから話しかけていって、その子らと友達になりました。おかげで芝居小屋にタダで入れてもらえました。「平手造酒(ひらてみき)」(※『天保水滸伝』に登場する剣客、時代劇や講談などに扱われた)の芝居なんか観(み)たのを覚えてますなぁ。

芝居を観た次の日は学校で、それをまねて友達とチャンバラごっこをしたりね。後年、僕が芝居や舞台に興味を持つようになる〝原体験〟になったのかもしれませんなぁ。ただし、芝居は1カ月くらいで終わってしまう。公演が終わると、トラックに荷物を積んで次の場所へ行ってしまう。せっかく仲良しになった友達も転校してしまうのが、寂しくて泣きました。

《小学校1年生、母のいいつけで、けがをして入院中の製材所従業員に弁当を届けた。そのとき、大型の「ジェーン台風」が大阪を襲う(※25年9月、死者約400人の甚大な被害を出した)》

病院まで小学校1年生には結構遠い距離でしたが、歩いていったと思いますねぇ。病室で従業員のお兄ちゃんと遊んでいると、次第に雨風が強くなってとうとう窓ガラスが割れた。そのころは、台風の情報を得る手段もなくて、母とは連絡が取れないし、帰れなくなった幼い僕は、心細さが募るばかり…。そこは地盤沈下が激しく土地が低かったので、激しい雨で道路はたちまち冠水し、一面が海のようになっていきました。

その翌日は台風一過、秋晴れが広がったのですが、道路から水が引かなくて、僕は動きが取れません。食べる物もなくて困っていたら別の従業員のお兄ちゃんが頭に弁当をくくりつけ、(冠水した道路を)抜き手を切って泳いでくる。信じられない光景でした。その人は後で聞くと、和歌山県出身で泳ぎが得意だったらしい(笑い)。結局、水が引くまで1週間、病院に閉じ込められましたけど、お兄ちゃんが2人分の弁当を毎日、届けてくれました。

《翌26年12月、今度は大火災に襲われる》

おっちゃん(母の長兄)の家に逃げ!と母から言われたのを覚えています。製材所の家の近くに、母の長兄(伯父)の家があったのです。けれども、火の手が回るのが早くて、とても逃げ切れない。立ちすくんでいた僕をどこかのお兄ちゃんが抱えて川に浮かぶ、いかだに降ろしてくれたそうです。

これは最近になって当時の同級生(※屋根の上から火事を見ていたらしい)から聞いた話ですが、そのとき僕は、いかだから川に落ちたようです。すぐにお兄ちゃんが引っ張り上げてくれたから助かりましたけど、もしも、いかだの下に入り込んでいたら浮かび上がってこれなかったでしょうねぇ。その記憶はうっすらとあります。

その火事で周辺が焼けてしまったために、僕らは製材所の家を出ることになります。僕としては、怖い製材所の社長と離れられて、ホッとした気持ちもありましたけど…。(聞き手 喜多由浩)

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