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「JR」VS「阪神VS阪急」熾烈な戦いが奏功 大阪ー神戸間鉄道開業150年、かつて梅田は郊外だった

産経ニュース / 2024年5月10日 17時48分

JR大阪駅前=8日、大阪市北区(川村寧撮影)

首都圏の新橋-横浜間に続く国内2番目の官設鉄道として大阪-神戸間に鉄道が開業してから11日で150年を迎える。この間、沿線では都市化が進み、阪神間はJR西日本、阪神電鉄と阪急電鉄の3社が利用客の獲得にしのぎを削る鉄道激戦区となった。大阪駅が設けられた梅田は、今でこそ国内有数のビジネス拠点だが、150年前は町の外れに位置し、のどかな田園風景が広がっていた。

幕末の混乱を経て、産声を上げたばかりの明治政府は、貿易港が置かれた神戸と「天下の台所」として国内の物資が集積した大阪との間32・7キロに官営の鉄道を通すことを決定し、明治7(1874)年に開業した。

官設鉄道を引き継ぐJR西などによると、大阪駅の候補地は当初、各藩が蔵屋敷を置いた堂島だった。ところが、人口が密集していたために地元から「汽車は火を吐くので火事になる」と猛反対に遭い、橋を北へ渡った梅田に駅を建設した。一帯は低湿地を埋めて田んぼにしたため、もともとは『埋め田』と呼ばれ、後にめでたい「梅」の字を充てたとされる。

牧歌的な雰囲気が漂うエリアに建つ初代駅舎は赤レンガ貼りの木造2階建てで「梅田ステンショ(ステーション=駅)」と親しまれた。

22(1889)年には東海道線の新橋-神戸間が全通。「官」主導のもと、鉄道が網の目のように全国各地に張り巡らされたが、関西の鉄道は独自の進化を遂げる。

38(1905)年には阪神電鉄が、大正9(1920)年には現在の阪急電鉄が、東海道線をそれぞれ南と北から挟みこむ形で、阪神間の狭いエリアに競合路線を開業させた。「『民都』大阪対『帝都』東京」(講談社学術文庫)の著書などで知られる明治学院大学の原武史名誉教授(政治学)は「乗客を積極的に誘致するためのアイデアが『民』主導で実行に移された点が首都圏などとは大きく異なる」と説明。私鉄2社は、甲子園球場に代表されるスポーツ施設や分譲住宅といった沿線の開発に積極的に資本を投下し、鉄道利用客の囲い込みを図った。

他社への〝敵意〟がむき出しになることも頻繁にあり、大阪-神戸間の参入が最も遅かった阪急は開業時、「綺麗で早うて。ガラアキで 眺めの素敵(すてき)によい涼しい電車」と新聞広告を打ち、阪神間の背骨ともいえる六甲山開発でも激しく火花を散らした。

ただ、新型コロナウイルス禍前のデータを見ると、JRや私鉄などを合わせた梅田の駅ターミナル全体の1日当たりの延べ乗降客数は、約237万人に達した。

原氏は「官(旧国鉄やJRを含む)に対抗する上での阪神と阪急の熾烈(しれつ)な競争が、結果的に都市発展をもたらした」と分析している。(岡嶋大城)

官設鉄道 明治維新後に国が建設した官営の鉄道で、旧国鉄やJRの前身に当たる。その後国有鉄道と呼ばれ、大正9(1920)年からは鉄道省が所管した。昭和24年には、国有鉄道事業が公社の日本国有鉄道へ移る。62年の国鉄分割民営化に伴い、JRグループ各社が事業を引き継いだ。鉄道行政については現在、国土交通省鉄道局が所管している。

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