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ダンプ16万台分土砂で「要塞化」 木幡山伏見城大名屋敷で見せつけた天下人・秀吉の力業

産経ニュース / 2024年4月18日 10時0分

豊臣秀吉が築いた木幡(こはた)山伏見城(京都市伏見区)に近い大名屋敷跡で、土地を段々畑状に造成し、通路を複雑に折り曲げるなど物々しく要塞化された痕跡が見つかった。屋敷の防御力を高め行軍を妨害する目的があったとみられるが、そこにはある九州の大名に寄せた秀吉の信頼の大きさもにじむ。同時に重機のない時代に大量の土砂を運び込んでいた形跡も分かり、天下人ならではの力業も見せつける。

えぐられた〝絶壁〟

発掘調査したのは民間調査会社の文化財サービス(京都市南区)。調査地は、豊臣期から徳川期にかけての伏見城の様子を江戸時代中期に描いた絵図などから、佐土原(さどわら)藩(現在の宮崎市)藩主、島津以久(もちひさ)の屋敷跡の一部とみられている。以久は島津本家の分家筋にあたる。

島津屋敷の広さは約230メートル四方あったとみられる。東に向かって高くなる構造で、東西の高低差は約16メートル。また1段の高さは2メートル前後で、屋敷内は8段程度の階段状に構成されていたとみられる。

このうち最上位から2~3段下にあたる場所について、文化財サービスは令和4年11月~5年6月に調査。屋敷跡は出なかったが、屋敷の仕切り塀とみられる柱跡、複数の平坦(へいたん)地や折れ曲がった通路跡が出土した。

調査地の北西隅からは南北約20メートル、東西約13メートルの広場が出土。その目前には、高さ約2メートルの〝絶壁〟があった。絶壁の一部は東に4メートル程度えぐられ、凹面が作り出されていた。文化財サービスの大西晃靖調査員は「城でよくみかける、敵に対して複数の方向から矢を射ることができる『横矢掛(がか)り』を参考にしたものでは」と説明する。

絶壁の後にもトラップ

絶壁に遮られた後、屋敷の本丸方面に進むためには、いったん南方向に進むしかない。しかしそこにもトラップとみられるものがあった。

それは通行を遮る施設があったと思われる柱跡だ。柱列は調査地の外に出てしまうために詳しい規模感は不明だが、塀のようなものと想像される。

その先には広場があり、さらに上段へとのぼる南北方向のスロープ状遺構も見つかっている。実に複雑な経路といえる。

伏見城や伏見の町の歴史に詳しい山田邦和・同志社女子大特任教授(考古学)は「秀吉がほぼ全国統一を果たした時期ではあるが、まだ絶対的とはいえない。そんな中、城の中心付近の守りを任せた秀吉の島津への信頼は厚い」と分析する。その上で構造などから「屋敷は島津でも分家というより本家のものとみる方が自然」との見方を示した。

ダンプのない時代に82万㎥の土砂

屋敷が建てられる前は、現場は谷で東西に分断されていた。この谷は大量の土砂を使って埋め立てられている。

谷は東西に約50メートル、深さは不明だが5メートル以上とみられる。そこに寺院など大型建物を支える基壇を築く際に使われる「版築(はんちく)」と呼ばれる工法に似た、白と黒の土砂を斜面に沿って交互に流して突き固めるなどの工法がとられていた。

文化財サービスは調査地とその周辺で確認された谷の埋め立てに必要とした土砂量を82万6000立方メートルと試算。10トンダンプで16万台分に及ぶ。土砂は木津川など他地域から搬入したものとみられるが、大西調査員は「ダンプのない時代にどのようにしてここまで運んできたのか。秀吉しかできない力業だ」とみる。

この造成地では地震の痕跡も確認された。地震は文禄5(1596)年に木幡山伏見城の前身、指月(しげつ)伏見城が倒壊した原因となった慶長大地震の可能性が高い。

山田特任教授は「木幡山時の造成とみられていたこの地の開発が、指月段階で進められていた可能性を示す証拠でもある。伏見のまちづくりの歴史を含め今後の研究の重要資料になる」と話している。(園田和洋)

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