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全米ツアー中にセスナ機で墜落死した天才ギタリスト「オジー。僕はもうロックスターになりたくなんいだ」ランディ・ローズが求めた安らぎ

集英社オンライン / 2024年3月19日 18時0分

1982年3月19日に25歳の若さで亡くなったランディ・ローズ。オジー・オズボーン・バンドの初代ギタリストに抜擢され、瞬く間にギターヒーローへと駆け上った彼だが、有名になるにつれ、どこか心の安らげる場所を求めていた…。(サムネイル/左:2023年3月19日発売『ランディ・ローズ 【Blu-ray】』(アルバトロス/ALBATROS)。右:2008年12月24日発売『トリビュート~ランディ・ローズに捧ぐ【Blu-spec CD】』(SonyMusic))

運命のオーディション

1979年、オジー・オズボーンはブリティッシュ・ハードロックの伝説的バンド、ブラック・サバスにとうとう愛想を尽かした。

ドラッグと酒浸り、リーダー格であるトニー・アイオミとの修復不能な確執。そういったことが積み重なってのクビ同然の脱退劇だった。



失意の中、オジーは自らの活動をスタートさせるため、バンドメンバーのオーディションを行う。スターバンドを離れてのソロ活動。期待感よりも新しい自分を受け入れてくれるかどうかの不安のほうが大きかった。先が見えずに途方に暮れていた。

しかしある夜、運命的な出逢いが起こる。

「小さな奴が入って来てね。男か女なのかも分からなかった。でもギタープレイを聴いた途端、もう声も出なかった。俺はすごく酔ってたけど、一気に冷めたよ」

オジーの前に現れたのは、ランディ・ローズだった。

母親が経営する音楽教室で、地元の子供たちに(注1)ギターを教えていた寡黙な青年は、「クワイエット・ライオット」(注2)というLAのローカルバンドでも活動していた。

ランディはこのオーディションに乗り気ではなかった。とても受かる自信がなかったのだ。しかし、母親の勧めもあり、「出向くこと自体が経験になるから」と、無関心のままギターとアンプを持って出掛けることにした。

そして会場につき、ウォーミングアップのつもりで少し弾いていると、オジーはランディに近づいてこう言った。

「君に決まりだ!」

(注1) のちにオジー・オズボーン・バンドに在籍するジョー・ホームズもその一人だった。ランディはレッスンごとに手書きのメモを生徒たちに渡し、励ましの言葉を掛け続けたという。「できるだけ一生懸命練習しなさい。そうすればチャンスは必ず来る。その時のために」。また、幼い頃からランディ・ローズをヒーローにし、オジー・オズボーン・バンドにギタリストとして一番長く在籍したザック・ワイルドは、「ランディの曲をプレイすること自体が名誉なこと」と、来日時のインタビューで話している。

(注2)アメリカでのレコード契約が取れなかった彼らは、1978年に日本のみでデビュー。ランディ在籍時に『静かなる暴動』『暴動に明日はない』の2枚のアルバムを残すが、結局アメリカではデビューできなかった。同じ頃のLAでは、新世代のハードロック・バンドが産声を上げていて、その中にはヴァン・ヘイレンがいた。超絶的なライトハンドを奏でるエディ・ヴァン・ヘイレン。ランディはオジーと組んで美しいクラシカルな旋律を極める。まったくタイプの違うギターヒーロー二人は、80年代のヘヴィメタル・シーンに大きな影響を与えることになった。なお、クワイエット・ライオットは1983年に念願の全米デビュー。LAメタルシーンの起爆剤としてリリースしたアルバム『Metal Health』がビルボードチャートで1位、シングル『Cum on Feel the Noize』が大ヒットとなる快挙を遂げるが、その頃はもうランディは亡くなっていた。アルバムのクライマックスに収録されている『Thunderbird』はランディに捧げられた。

ロックスターになりたくない

こうしてランディはイギリスに渡り、オジーと曲作りに励むことになる。二人は最初から一心同体のように通じ合っていたという。

「説明なんかいらないんだ。何をするかが分かってる。あの通じ方は驚異的だった。ランディは俺の人生の中で、初めて希望を与えてくれた奴だった」

1980年にリリースされた最初のアルバム『Blizzard Of Ozz』は絶賛され、ツアーも大盛況。オジーの不安は、一転して成功へと変わった。

リフ主体のブラック・サバス時代から、メロディ志向のソロ時代へ。その鍵を握ったのがランディの個性的なギターで、彼のクラシック音楽の旋律を取り入れたプレイは、当時のロックシーンには余りにも衝撃的だった。

悪魔崇拝、酒のトラブル、鳩やコウモリを食いちぎった事件など、オジーには常に黒いイメージがつきまとっていた。一方で、ランディは何もかも逆のような白く美しい天使のような存在であり、この二人の相反するコントラストこそが、最大の魅力でもあった。

1981年には2枚目のアルバム『Diary Of A Madman』もリリース。すべてが順調かのように見えたのだが……年が明けて全米をツアーしている頃、ランディはオジーに打ち明けた。

「オジー。僕はもうロックスターになりたくなんいだ」

一体何を言い出すんだ? オジーにはランディの言葉が信じられなかった。

「それがどんなに素晴らしいことか分かってるけど、僕は大学へ行って、もっとクラシックを勉強して学位を取りたい」

無口で真面目なランディは、ロックスターでいることよりも、クラシック音楽を追求したがっていた。ツアーの合間も、実家で母親のフルートと一緒にギターを演奏する物静かな青年だった。心の安らぎがどこにあるかを知っていたのだ。

その数日後、ツアー移動中のこと。

1982年3月19日早朝、米・フロリダ州でランディが乗ったセスナ機が墜落。メジャーデビューからわずか1年半。享年25。

オジーは「自分の中の一部が死んだ」と、深い悲しみに暮れた(注3)。立ち直るまで長い時間を要することになったオジーだったが、ランディ・ローズとの奇跡は、今聴いても心が震えるくらい美しい。

(注3) オジーはランディの死に大きなショックを受け、サバス時代以上にドラッグやアルコールに溺れることになったが、後年立ち直った彼はこう話している。「ランディと一緒に過ごした時間はまるで永遠のように思えた。本当に楽しかったよ。彼は俺にとって、本当に特別な人間だった」。1987年にはランディ在籍時のライブ盤『Tribute』をリリース。『Crazy Train』のPVには、ランディが愛用した水玉のフライングVが象徴的に登場。このギターはランディの母親宅に保管されていた。オジーはこの時のエピソードを語っている。「彼が死んだ時、彼のギターをケースに入れて閉めたのは俺だった。そして撮影の時、ケースを開けてみたら死ぬかと思うくらい驚いた。弦は錆び付いてたけど、吸いかけの煙草の箱が当時のまま残っていてね。不思議な感じでとても感傷的になったよ」

文/中野充浩 

参考・引用/NONFIX特別企画『ランディ・ローズに捧ぐ』(フジテレビ)、『ヒストリー・オブ・オズ』(ソニー・ミュージック)

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