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日本マクドナルドが揺れ続けた「日本か、アメリカか」の経営軸。藤田田・原田泳幸・カサノバ、歴代経営者で振り返る52年

集英社オンライン / 2024年3月31日 9時0分

日本マクドナルドのサラ・カサノバCEOが、2024年3月26日付での退任を発表した。カサノバは「カナダでの家族との時間を大切にしたい」と語っているという。日本マクドナルドはつい先日、過去最高益を達成したばかり。有終の美を飾っての幕引きといえるだろう。そんな日本マクドナルドの経営を、歴代経営者から読み解く。

【画像】マクドナルドを代表する看板商品

日本マクドナルドのカサノバCEOが退任

カサノバが日本マクドナルドに関わるようになったのは、前任の原田泳幸が経営の舵取りを取っていたとき。日本マクドナルドの業績が低迷していた最中で、先行きの明るいスタートではなかった。

社長に就任後もトラブルの連続だった。就任から1年後の2014年には、チキンナゲットの期限切れ問題が発覚。就任直後から責任追及の声にさらされることになる。謝罪会見での対応にも批判が集中し、試練の連続の中でのスタートだった。

しかし彼女はそうした逆境をバネに、改革へのリーダーシップを発揮する。2015年には全国47都道府県を自ら訪れ、顧客との対話を重ねた。地道な努力が実を結んで、徐々に業績は回復し、2024年の過去最高益の達成につながっていく。

では、カサノバがトップになるまで、日本マクドナルドはどのような道を歩んできたのか。本記事では、半世紀以上にわたる同社の歴史を「経営者」に光を当てて紐解く。キーワードは「アメリカと日本」。日本の食文化に革命を起こした同社だが、その経営スタイルは「アメリカ」と「日本」の狭間で常に揺れ動いてきた。

藤田田が描いた"日本のマクドナルド"

日本マクドナルドの歴史は、藤田田という男から始まる。当時、日本でのマクドナルド経営権の買収に名乗りを上げた企業は何社にものぼった(その中にはドムドムバーガーを立ち上げた、ダイエーの創業者・中内㓛もいた)。その中で、藤田はアメリカマクドナルド社の創業者レイ・クロックの指名を受け、同社の立ち上げを任された。

藤田は当初から「日本独自の経営」を志向していた。日本マクドナルドも、自身の会社である藤田商店と、米国マクドナルド社とが資本を出し合った合弁企業の形をとり、より日本側の経営意図が働く形にした。

そうした意向は、日本1号店の立地にも反映されている。当初、米国マクドナルドは、国道沿いの湘南・茅ヶ崎への出店を提案した(「パシフィックホテル茅ヶ崎」の隣接地といわれている)。当時、アメリカのマクドナルドは郊外のロードサイド店舗が中心だったからだ。

しかし藤田氏は、この提案に反対。「日本で流行を生み出すのなら銀座から」という信念のもと、1971年、日本1号店を東京・銀座の三越百貨店に置いた。歩行者向けの店舗にしたわけだ。

結果、銀座の1号店は連日大盛況。導入されたレジスターが壊れるほどの客足で、客の数は毎日1万人を超えた。銀座の歩行者天国でハンバーガーを食べ歩く姿がメディアを通して拡散され、瞬く間に「マクドナルド」の名は日本中に轟くこととなる。

「日本的経営」を体現した藤田イズム

藤田が経営の軸に据えたのは、日本的経営の象徴ともいえる「家族主義」。

フランチャイズオーナーとの関係構築においては、画一的な契約ではなく、一店舗ごとの事情に合わせたオーダーメイドの契約を結んだ。一説には67通り以上の契約パターンを用意したとも言われている。オーナーとの長期的な信頼関係を重視したのだ(小川孔輔『マクドナルド 失敗の本質』)。

店舗づくりでも、「ファミリー」をキーワードに、家族連れが入りやすい雰囲気づくりを心がけた。マクドナルドの社史を見ると、かつては、バスで子どもたちだけのバースデーパーティーを主催したり、「マックシアター」という子どもに人気の映画を上映する店舗があったりもした(『日本マクドナルド20年のあゆみ 優勝劣敗』)。

今でも郊外の店舗には「プレイランド」が併設されているが、これもその名残だ。

しかし1990年代後半、長引く不況の影響を受け、藤田の経営は陰りを見せ始める。デフレ経済下での価格競争に巻き込まれ、極端に値段を下げた「サンキューセット」などの提供で、ブランドイメージが低下。一時は「デフレの勝者」とまで言われるが、結果的に業績が低迷してしまう。日本全国への拡大路線も仇となり、藤田は2003年、ついに会長の座を去ることとなった。

とはいえ、藤田によって、マクドナルドが日本に根付いたのは間違いない。そしてその背景には、彼がアメリカ的なファストフードの象徴であるマクドナルドを「日本的なもの」として、作り替えようとした取り組みがあったのだ。

原田泳幸による「国際標準化」路線

藤田の後を継いだ原田泳幸は、「日本化」路線からの大胆な転換を打ち出した。アップルコンピュータジャパンの社長でもあった原田は、日本マクドナルドを、「アメリカ化」とも呼ぶべき方向に導こうとした。先の小川は、原田体制での経営を「米国式経営に忠実だ」と著す。

原田が掲げたのは、「スピード」と「利便性」の追求だ。マクドナルドの価値を「スーパーコンビニエンス」と位置づけ、24時間営業や100円マックなど、次々と思い切った施策を打ち出した。

ここからもわかるように、原田の経営においては「合理性」が徹底された。年功序列の撤廃、成果主義の導入に加え、業績不振店の閉鎖をいとわず、オーナーとの関係悪化にも構わなかった。藤田時代は温情主義で成り立っていたフランチャイジーとの関係も、この中で整理されていく。

その甲斐もあって、原田就任後の初期に、マクドナルドの業績は急回復を遂げる。就任から数年後の2007年にはそれまでの最高益を更新するまでになった。

その一方、極端な効率化の中でマクドナルドのブランドイメージは確立されなかった。また、深夜営業による「ファミリー層の離反」もあり、結果として、客足は離れてしまい、業績は再び低迷。効率化を急ぐあまり、人間味が失われてしまったともいえるのかもしれない。藤田時代の「日本的」な側面が、「米国的」なものに変わったのが、原田時代の特徴だった。

カサノバ流「顧客第一主義」と「日本回帰」

そして、いよいよ、カサノバ体制だ。先にも書いた通り、チキンナゲットの問題で、就任当初は暗雲が立ち込めていた。

だがカサノバは、着実に信頼の回復に努めた。日本マクドナルドが発売した公式のビジネス書(『日本マクドナルド 「挑戦と変革」の経営: “スマイル”と共に歩んだ50年』)によれば、彼女が2015年ごろから行った改革は、改めて日本に適合したマクドナルドを作る取り組みのひとつだったという。「日本」という場所で、マクドナルドをもう一度根付かせようとしたのだ。

例えば、カサノバ自らが全国各地を訪れ、そこにいる母親たちに直接ヒアリングを行い「顧客第一」の姿勢を鮮明に打ち出したのもその一つだ。

また、2017年に行われた「マックなのか?マクドなのか?おいしさ対決!」キャンペーンでの出来事がそれを顕著に表している。これは、関東の「マック」と関西の「マクド」、どちらの呼び方が正しいのかを競う、SNS上で行われたキャンペーンだ。結果として関西の「マクド」軍が勝利したのだが、それにちなんでカサノバは公式サイトの代表挨拶を関西弁にしたのだ。このように、ユーモアを交えつつ、日本人に寄り添う姿勢を示した。

こうして見ていくと、原田時代に大きく傾いた「アメリカ化」の振り子を、再び「日本」へと戻したのがカサノバだったといえるかもしれない。顧客の共感を軸に据え、「日本的マクドナルド」の進化形を模索する。そこに、カサノバ流経営の本質があったように思う。

日本マクドナルドの歴史は「日本」と「アメリカ」の間を行き来する歴史でもあった。藤田の「日本化」、原田の「アメリカナイゼーション」、そしてカサノバによる「日本回帰」。各経営者の下で、力点の置き方は大きく変化してきた。

今後、後継者が同社をどのような方向に導いていくのか。その先行きを占う上でも、このような歴史の振り返りは、一つの指標となる。さまざまな時代を乗り越え、半世紀以上にわたって愛され続けてきた日本マクドナルド。その針路は、これからどこへ向かうのか。


文/谷頭和希

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