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刑事ドラマを変えた『踊る大捜査線』のもとになったのは『仁義なき戦い』のヤクザ的世界観!?「相手を出し抜いて組織を守り抜くのはヤクザも警察も同じ」

集英社オンライン / 2024年5月11日 12時0分

「刑事ドラマ」はつねにテレビドラマの中心にあり続けてきたが、1997年、刑事ドラマ史に残る重要作が放送開始された。『踊る大捜査線』だ。

【画像】柳葉敏郎演じる室井が主人公の映画『室井慎次』の公開がつい先日発表されたばかり

それまでの一匹狼的な刑事ではなく、警察組織に属する公務員としてのリアルすぎる刑事像が斬新だった本作の舞台裏を、『刑事ドラマ名作講義』より一部抜粋、再編集してお届けする。

当初のタイトル案が「サラリーマン刑事」だった

「捜査することないんすか?」
「したいの?」
「はい、エネルギー満タンです」
「困ったなー」

これは、第1話の序盤で新任刑事・青島俊作(織田裕二)と上司である袴田課長(小野武彦)が交わす会話だ。


 

着任早々所轄署管内で殺人事件が発生し、念願の捜査ができると意気込む刑事になりたての青島だったが、課長からは「困ったなー」とつれない返事をされ、所轄署の現実と悲哀をいきなり思い知らされる。

殺人事件ともなると本庁が捜査の主導権を握り、所轄の刑事は本庁側からの要請や指示を待つ立場なのだ。

いざ捜査に参加できるとなっても聞き込みや情報の裏付けなど地味な仕事ばかり。犯人逮捕のような最後のおいしいところは全部本庁が持っていく。それが“規則”なのだ。

雇用関係という点から見れば、確かに刑事は特別な職業なわけではない。私たちの多くと同じく給与を得る代わりになにかと我慢を強いられる雇われの身、この場合は一介の公務員にすぎない。組織内の階級や上下関係によって行動できる範囲はあらかじめ制限されていて、規則にがんじがらめにされている。

同じく第1話では、現場に急行しようとする青島がパトカーを出そうとして、規則なので所定の書類への記入と上司のハンコを担当の係から求められ、しびれを切らす場面が出てくる。

こうした雇われの身の現実は、それまで刑事ドラマにおいてまったく描かれなかったわけではない。ただその場合も、飲み屋で漏らす「安月給」の愚痴とかあくまで本筋からは外れたところでの軽い息抜き的なふれられかたであることがほとんどだった。

パトカーを使うのにも手続きが必要というのも言われてみれば納得だが、刑事ドラマではずっと省略されていた部分だった。

『踊る大捜査線』は、その意味において従来の刑事ドラマの文法を書き換えたと言える。当初のタイトル案が「サラリーマン刑事(でか)」(これは第1話のタイトルにも使われている)だったように、刑事もまた給与生活者として他の一般企業の社員と本質的になんの変わりもない。

そしてそんな雇われの身であることが、捜査の進展、ひいては事件の解決をも大いに左右することがある。そこに物語を発見した点で、この作品は画期的だったのである。

そもそもの着想を抱いたのは、ほかならぬ脚本の君塚良一だった。

君塚は、最初放送作家としてコメディアンの萩本欽一に弟子入りした。バラエティ番組の放送作家だったが、明石家さんま出演のドラマなどをきっかけに、ずっと関心のあった脚本を手掛けるようになる。

そしてマザコンキャラの「冬彦さん」が社会現象を巻き起こした『ずっとあなたが好きだった』(TBS系、1992年放送)で一躍人気脚本家となった。

そんな君塚のもとに、織田裕二主演の刑事ドラマの脚本依頼が舞い込む。君塚は執筆のための準備として実際の警察関係者への取材を始めるが、そこで耳にしたのは、ありがちな刑事ドラマのイメージとはかけ離れた“刑事たちの日常”だった。

たとえば、事件の重要参考人の家の前で張り込みをしていた若い刑事が、夜になったら「ぼく、今日デートなんで帰ります」と言って本当に帰った話があったかと思えば、同じく若い刑事が尾行中にお腹が空いてパンとジュースを買ったのはよいが、領収書をくださいと言って手間取ってしまい、犯人を見失いかけた話もあった。

こうしたエピソードが次々に飛び出すなかで、「刑事もサラリーマンである」というコンセプトに君塚は思い至る(君塚良一『テレビ大捜査線』、22頁)。

組織論という視点の導入

一方フジテレビプロデューサー(当時)の亀山千広にも、これに連なるひとつのアイデアがあった。それは、組織論という視点からの刑事ドラマである。

新たな刑事ドラマを構想するにあたり、亀山はこう考えた。バディもので行っても、すぐ近くに人気の『あぶない刑事』があって勝てない。また刑事部屋が中心となると、まだ記憶に新しい『太陽にほえろ!』がすでにある。

そう思いあぐねていたとき、高村薫の直木賞受賞作『マークスの山』(1993年刊行)を思い出した。刑事が主人公の重厚な推理小説だが、そこには「管理官」などの当時はまだ聞き慣れなかった警察の役職名が色々と出てくる。そこに亀山千広はヒントを得て、組織論というアイデアを考えついたのである(『キネマ旬報』2008年12月下旬号、64頁)。

君塚良一は、ほかにゆうきまさみの漫画、押井守のアニメ映画で有名な『機動警察パトレイバー』(これは演出の本広克行の好きな作品でもあった)も参考にしたと語っている。この作品にも、警察官をサラリーマンとしてとらえる視点があった(TVぴあ責任編集『踊る大捜査線 THE MAGAZINE』、47頁)。

こうして、サラリーマンであるひとりの刑事が警察という厳格な組織のなかで苦闘しながら自らの生きかたを模索するというドラマの骨格が出来上がった。刑事ドラマにおける「警察ドラマ」という新たなジャンルの誕生である。

青島俊作と室井慎次の対立、そして友情

警察ドラマ的な部分は、主人公青島俊作が周囲とのあいだに起こす摩擦としてまず示される。

青島の前職はコンピュータメーカーの営業。成績優秀な営業担当者だったが、ふと思い立って刑事になろうと考えた。つまり、脱サラの転職組である。年齢は26歳。

その理由も、キャリアアップのためや高邁な理想があってというよりは、ただ憧れでなんとなくというのが面白い。刑事ドラマに出てくるようなカッコいい刑事の姿に憧れていたのである。

第1話冒頭の模擬取り調べの場面でも、青島が犯人役に田舎のおふくろさんの話をわざとらしく持ち出し、「かあさんが~よなべーをして♪」とささやくように歌い出したかと思えば、今度は「カツ丼食べるか?」と言い出して、別室からモニターでチェックしていた審査役の上司たちをあきれさせる場面がある。

だから当然、厳しい上下関係と細かい規律を重視する警察の流儀は肌に合わない。むしろ期待とはあまりに異なる職場に失望の連続である。

一方、厳格な警察組織の象徴として登場するのが、柳葉敏郎演じる室井慎次である。ドラマ初登場時の室井の役職は警視庁刑事部捜査一課の管理官。「管理官」とはその名の通り警察における管理職のひとつで、各課に存在する。

室井の場合は捜査一課なので、重大な事件が起こった場合には捜査本部のトップとして陣頭指揮を執るという立場だ。複数の係にまたがって責任を持つので、同時に複数の事件の責任者になることもある。

管理官なる人物は、それまで刑事ドラマにまったく出てこなかったわけではないが、これほど全面的にフィーチャーされたのは『踊る大捜査線』が初めてだろう。

現場を軽んじることはないにせよ、それでも現場の刑事の思いよりも警察組織の秩序を優先する決断を下すことも少なくない。そして同じ現場でも、青島ら所轄の刑事の思いはなおさら軽んじられやすい。その対立関係が、この作品の物語展開におけるひとつの重要モチーフになっている。

ただ、「部下の気持ちがわからない冷徹な上司」で終わらないところが、この『踊る大捜査線』における室井慎次の魅力だ。

室井慎次は、いうまでもなく国家公務員採用総合職試験(旧・国家公務員採用Ⅰ種試験)を突破したキャリア組に属する。劇中ではその後も出世して警視監という非常に高い地位に就くことになる。ただ、それまでの道のりは決して平坦ではなかった。

まず、学閥の壁があった。室井はキャリア組のなかでは少数派の東北大学出身。公務員試験に強い東京大学出身者が圧倒的な主流派を形成するなかで、どうしても不利な立場に置かれてしまう。このあたりは、一般企業にも存在するであろう派閥の力学がより強固なかたちで描かれる。

だが室井は、刑事という職業に対する青島の一途な思いに触発され、自らの考える理想の警察を実現するために警察組織の旧弊な部分と断固戦うことを決意する。

そして捜査のなかでぶつかり合いながらもお互いの力量を認めるようになり、いつしか2人のあいだには立場の違いを超えた同志としての絆が生まれてくる。

その意味で、『踊る大捜査線』は、それぞれの理想の警察を求める青島俊作と室井慎次の友情物語でもある。

『踊る大捜査線』は『仁義なき戦い』だった!?

そのようにとらえるとき、亀山千広が語る次のような回顧談は、俄然重みを帯びてくるように見える。

それは、『仁義なき戦い』という映画にかかわる話である。改めて説明の必要もないだろうが、『仁義なき戦い』は、1973年に公開された映画。広島を中心とした暴力団同士の抗争を描いたやくざ映画だ。

この作品を製作した東映は、それ以前からやくざ映画を得意としていた。ただしそこでは、やくざの世界の伝統的しきたりや仁義中心の価値観を援用しながら、いわゆる「男の美学」が一種の様式美として描かれていた。要するに、理想化された世界である。

だが『仁義なき戦い』はまったく異なっていた。実際にあったやくざ同士の抗争を記録したものを原作に、やくざの世界を泥臭く、そして生々しくリアルに描いた。

監督である深作欣二の手持ちカメラを使ったダイナミックな撮影も効果的で、『仁義なき戦い』は「実録もの」と称されて予想外の大ヒットとなり、すぐさまシリーズ化された。

ではその『仁義なき戦い』が『踊る大捜査線』とどのようにかかわっていたのか?

プロデューサーの亀山千広が組織論の観点から『踊る大捜査線』をつくるというアイデアを抱いたことは前に述べた。そして当然、その話を脚本の君塚良一にもした。

すると君塚は、『仁義なき戦い』の脚本家である笠原和夫の本を持ち出してきて、それは『仁義なき戦い』ではないかという話をし始めた(前掲『キネマ旬報』、64頁)。

『仁義なき戦い』は、血で血を洗う抗争を描いたやくざ映画のイメージ。一見的外れに思うかもしれない。だが君塚にとってはそうではなかった。

たとえば、シリーズ第3作の『仁義なき戦い 代理戦争』(1973年公開)などは、単純な暴力沙汰よりも、あの手この手を使って相手、場合によっては身内すら出し抜き、騙してでも組織を守り抜こうとするやくざの涙ぐましいまでの努力が滑稽なまでに戯画化されて描かれている。

その様子は、対極にあると思われている警察でも変わらないのではないか。そう君塚は考えたのである。この経緯を踏まえ、亀山はこう語る。「つまり『踊る』は僕らの中で、半分『仁義なき戦い』なんですよ」(同誌、64頁)。

『仁義なき戦い 代理戦争』は、1960年代初頭の話である。終戦からある程度時間が経ち、経済も上向いて世の中が落ち着いた頃のことだ。

混乱期が過ぎ、一般企業と同様にやくざも組織化が進む時代のなかで、当時の米ソ対立と同じく武力を背景にした外交戦術の巧拙が問われるようになる。要するに、やくざの世界も社会全般と変わらないものになったのである。

笠原和夫は著書のなかでこう記す。「戦後、民主主義の普及と産業の変革によって、徒弟制度や部屋制度の不文律社会が崩壊し、それに伴って、〈仁義〉なき戦いが始まった。それはいまもあらゆる階層に及んで拡大しつつある」(笠原和夫『破滅の美学』、322頁)。むろん警察にもまた水面下での派閥争いがあり、組織のなかでの激しい駆け引きが存在する。

それはきっと、だいぶ以前からあったものだろう。だが1990年代後半になってようやく、刑事ドラマはそのリアルな現実を、シニカルな視点を交えながら俎上に載せることができるようになった。

『踊る大捜査線』は、「様式美」に傾きがちだった刑事ドラマを「実録もの」という新たなエンタメに変えたのである。

これ以降、刑事ドラマはそこから後戻りすることはできなくなった。


文/太田省一

刑事ドラマ名作講義

太田省一
刑事ドラマ名作講義
2024年4月24日刊行
1,980円(税込)
新書判/432ページ
ISBN: 978-4065354742
テレビの黎明期以来、「刑事ドラマ」はつねにテレビドラマの中心にあり続けてきた。『七人の刑事』など、いまの刑事ドラマの原点となった作品が登場する1960年代から、『太陽にほえろ!』を筆頭に多彩なタイプが生まれた1970年代、『あぶない刑事』のようにコミカルな要素がヒット作の条件となった1980年代、警察組織をリアルに描いた『踊る大捜査線』など重要な変革が生まれた1990年代、そして刑事ドラマの歴史を総合するような『相棒』が始まった2000年以降まで。日本の刑事ドラマ繁栄の理由を歴史と作品の両面から深掘りする。堂々の432ページ。

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