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自殺直前の母の忘れられない一言とは。「大人は誰も信じられない」喧嘩に明け暮れて大立ち回りの後に上京、AVプロダクション設立、嘘だらけの芸能界デビュー、嶋大輔との伝説の喧嘩を高知東生が語る

集英社オンライン / 2023年1月25日 11時1分

2016年6月、ラブホテルで不倫相手の女性と覚醒剤、大麻を所持した疑いで現行犯逮捕された高知東生さん(58歳)。2023年1月25日には自身初となる自伝的小説『土竜』を刊行し、その壮絶な半生を綴った。高知県で生まれ育ち、上京してからの波乱万丈な半生について聞く。(全3回の2回目)

母の自殺直前、忘れられない一言

――複雑な家庭環境の中で、反抗期を迎えたりは?



反抗期というか、一番ぶっ壊れたのは、俺が高校を卒業する直前、母親が死んだこと、そして、その母親の葬式の日に、それまで父親だって言われていた人が本当の父親ではなかったと知ったときですね。

高校3年くらいになると、それまで若い衆の運転でしか車に乗ったことがなかった母親が、国産の車を自分で運転して、学校の参観日とか野球の試合に来るようになったんです。いつも着物でびしっと化粧をしていた母親が、すっぴんで地味な格好してね。最初、俺でも誰だかわからなかったくらい。

たった一枚だけ残っている母親の写真

そんなある日、母親が高校を卒業したらどうするのか、進路についてどうしても今日中に話したいって、寮まで来たんです。俺はもう野球でプロになったり、大学に入るのも無理だろうし、かといってカタギの道も諦めていたというか。若い衆からも「野球はほどほどに。くれぐれもケガだけはしないように」なんて言われていましたからね。

だけど、わざわざ寮に来た母親は「任侠の世界は絶対にだめだ」って言うんですよ。

自分は思いっきりその世界で生きているのに。とにかくヤクザにはなるなって。今考えると、初めて母親に会った頃と比べると、少しずつ着るものや身に付けるものは地味になっていたので、生活が苦しくなっていたんでしょう。

別れ際、母親は俺に向かって「私、きれいかな?」って言ったんです。こっちは思春期の高校生ですから、母親にきれいだなんて言えるわけもなく、「アホか! 気持ち悪い!」って返して。母親は泣きながら車に乗って寮から帰っていきました。

その帰り道、母親は自殺したんです。

母親の背中にはきれいな緋牡丹の入れ墨が入ってましてね。でもあるとき、ふっと見たら、あんなにきれいだった緋牡丹にばっさり線が入ってたんですよ。そのときは子どもだったのであんまりわかってなかったですけど、あれは斬られた傷でした。家にカチコミが来て、俺も避難させられたことがあったんですけど、そのときにやられたんでしょうね。

高校卒業後、連日喧嘩。「大人は誰も信じられない」

野球部に所属していた高校1年生の頃

――その後、それまで父親だと聞かされていた人が、実は本当の父親ではなかったと知ることにもなり。

どうして大人は誰一人、俺に真実を教えてくれないんだ、もういい加減にしてくれって、ぶっ壊れました。しかもそのとき聞かされた本当の父親というのも、また別の県のヤクザだったんです。

それまで地元では中井組の組長の息子として生きてきたのに、実は違った。そのことをまわりに知られるのもすごく怖かったです。そういう恐怖もあって、大人はもちろん、誰のことも信用できなくなり、荒れていきましたね。

母親の遺言でもあったので、高校を卒業したあとは、任侠の世界ではなく、高知県の大丸デパートに就職しました。就職はしたけど、まぁ生活は無茶苦茶でしたよ。

高校までは明徳義塾の野球部で寮暮らしの丸坊主でしたから、街で「中井組の息子やな」とか絡まれても逃げたりしてましたけど、卒業してからは喧嘩しまくり。本当は組長の息子じゃないってバレるのも怖かったし、とにかくなめられちゃいけないと思って暴れまくってました。

1982年、春の甲子園に明徳義塾が出場、応援団長を務めた

――中学や高校の友人、あるいは恋人とかに、悩み相談というか、ご自身の出自について話したりはしなかったんですか?

しなかったですね。というか、できなかった。地元を中井組が統一していたならまだしも、当時は中井組の一和会と、敵対する豪友会とが激しい抗争をしていた時期で。別の県では組長の息子っていうだけで殺される事件があったりしたんですよ。

そういうのもあって、父親が中井組の組長ではないって知ったあと、もう俺は関係ない、これからは暴れまくってやるってなったんです。

――ちなみに、喧嘩ってどのくらいのペースでやるんですか?

ほとんど毎日ですね。

高知の大丸デパートでの大乱闘

成人式の日、親戚の家で撮影した記念写真

――毎日……。夜に喧嘩したあと、朝にはデパートに出勤するんですか?

ナンパした女性の家に泊まったりもしていたので、同じ服着てね。デパートのメンズフロアの店員が何してんねんって感じですよね。

でもそんなふうに、毎日のように街で暴れていたので、あるときデパートに喧嘩した独立系の組の若い衆が報復にやって来たんです。ものすごく弱かったので、まさか組員とは思わず。なんで職場にやって来たかというと、喧嘩したあと、そいつらが組の名前を出したので、俺も負けじと「こちとら大丸の者じゃ!」って思わず言っちゃったんですよ。

――デパートの名前を。

そうそう、高知で「大丸」といえば、大丸デパートしかないから。それでそいつらが幹部を引き連れてやって来て、売り場で大暴れしたんです。そこらじゅうの物を壊しまくって。お客さんもいる売り場で喧嘩するわけにはいかないので、とりあえずバックヤードに引っ込んで、中井の親父に電話しました。本当の父親じゃないとわかってはいながら、向こうは俺のことを可愛がってくれていたので、初めて親父に助けを求めたんです。

――助けてくれたんですか?

「わかった。待っとけ」って電話を切ったあと、一体どこにいたの?っていうくらい、すぐ来ましたね。
「お前ら何者じゃ?」「中井組じゃ」って。暴れてたやつらもわけわからないので、「なんで中井組がおるんじゃ」って言うんだけど、「この方は親分の息子さんじゃ」って。それであっという間に全員さらわれていきました。

――暴れていた人たちがさらわれたあと、職場はどうなるんですか?

呆然としながら部長が「お前は何者や?」って言ってました。でも親父は大丸デパートの外商の顧客だったので、会社の上の人たちには知られていたんですよ。それで、迷惑をかけたからって、親父からデパートにとんでもない数のお寿司が届きました。

上京後、AVプロダクション設立、そして芸能界デビューの成り上がり…

――すさまじいエピソードですね……。

でも、さすがにもう地元にはいられないと思って、大丸を辞めて、東京へ行ったんです。まわりには矢沢永吉の『成り上がり』を読んで影響されたとか言ってましたけど、実際は逃げたんですよ。あそこまでのことをしてしまったら、いずれ本当は中井の親父の息子じゃないってこともバレるだろうし。だったら東京で成功して、笑い話になる頃に凱旋しようって。

――東京へ行ってからは、どんなことをしていたんですか?

昼は原宿のテント村でアルバイト、夜はホストクラブの皿洗い、そこからホストもやるようになって、お店のナンバー1にもなりました。あとは、ショーパブで働きながら舘ひろしさんのものまねをやったり。まったく似てなかったですけどね。

ほかにもDCブランドのコレクションにモデルとして出たり、その縁で新宿の伊勢丹で働いたり。時代もバブルでしたから、俺も若くて体力もあって、何でもやりましたよ。

――そこから、アダルドビデオの会社を立ち上げるんですよね。

東京でも知り合いがどんどん増えていって、夜の遊びも覚えていきながら、知り合いから声をかけられて、アダルトビデオの女優さんになりたい子を紹介したりしているうちに、自分と仲間でAVプロダクションを立ち上げました。

当時のアダルトビデオは顔も隠していたし、組関係の人との繋がりもなかったし、いわゆる強要とかも、少なくとも自分が関わってきた仕事にはなかったです。最初の妻もアダルトビデオの女優さんでしたから。

――まさに東京で成り上がっていったわけですね。

金を稼げるようになってからは、ひたすら散財の毎日です。車を何台も買って、クラブやディスコのVIPルームでどんちゃん騒ぎ。ゼロハリバートンのアタッシュケースに現金だけ入れて銀座に行ったりね。最初に薬物を覚えたのもこの頃です。

でもそんなバカみたいなことばっかりしていると、当然まわりの人間も怪しい人が多くなって、人間関係でも仕事でもトラブルばっかり起こるわけですよ。正直グレーな商売もやっていました。裏金も手に入れて。ヤクザにこそならなかったけど、こんな生き方でいいのかなって。

そんな疑問を抱えているときに、ディスコで嶋大輔と出会って、今度は自分が出る側として、芸能界に入っていくわけです。

「お前が嶋大輔か!」「表出ろや!」
嶋大輔との喧嘩で失ったもの

――もともと嶋大輔さんのファンだったんですよね。

大好きでした。なのに当時の俺はバカだったので、緊張もあったのかな、ディスコのVIPルームにいる嶋大輔を見て興奮しちゃって。握手してもらうつもりが「お前が嶋大輔か!」「表出ろや!」って声かけちゃったんです。

――思いっきり喧嘩売ってるじゃないですか。

そうですよね。案の定、殴り合いの喧嘩になりました。もつれたときに肘が当たって俺の前歯が飛んだんですよ。それで「拾えや!」って言ったら、拾ってくれました。後輩にアロンアルファを買いに行かせて、とりあえずくっ付けて。

よくあることですが、喧嘩すると仲良くなるんですよ。それでちょくちょく連絡をとるようになり、やがて嶋大輔の所属する事務所の社長を紹介されて、芸能人になりました。当時28歳でしたから、だいぶ遅いデビューです。

――デビュー当時の写真を見ると、爽やかな二枚目路線ですよね。

芸能人としてのプロフィールを作るときに、当時の事務所の社長から「全部話せ」って言われたんです。それで東京に来てから初めて自分のすべてを話しました。話を聞いてわかってくれた社長は、「本名はやめとこ」と言って「たかちのぼる」という芸名を考えてくれました。

今と比べても、事務所の力がものすごく強かった時代ですからね。いいドラマにキャスティングされるのも、演技力がどうとかではなく、事務所のプッシュがあるおかげ。

でも俺にとってはそれがすごく心地よかったんです。芸名を付ければ本名も出さないで済むし、役者は自分ではない人間を演じられる。ヤクザの息子であることも、地元の高知で暴れまくっていたことも、東京でグレーな商売をしていたことも関係ない。芸能界の仕事が性に合ったのは、素の自分ではなく、飾った自分で勝負できるから。

テレビに出させてもらうようになってからは、トーク番組とかで地元の友だちに声がかかったりするんですよ。本当はサプライズで登場する段取りなのに、事前にその友だちから電話がかかって来て、「テレビの人から昔のエピソードを話してほしいって言われたんだけど、どこまで話していいんだ?」って。

――大丸デパートでの大騒動は話せないですもんね。

話せるわけないですよ。

(#3 覚醒剤と大麻の所持で現行犯逮捕…その後、高知東生はどう生き直しているのか…)

取材・文/おぐらりゅうじ 撮影/高木陽春

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