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「小田急」と「大分県」が異色のコラボ。実は“深い縁”でつながっていたワケ

日刊SPA! / 2024年8月23日 8時51分

 小田急はわずか2年間で現路線の大部分が一気に開業したため、沿線は新東京の新たな観光・通勤路線として脚光を浴びた。また、1927年には小田急開通に合わせて向ヶ丘遊園(2002年閉園)を開園、さらに1929年には当時は農村地帯に過ぎなかった神奈川県大和村(現在の大和市)で「林間都市計画」と称したニュータウン開発をおこなうなど、経営の多角化を図った。1935年には、のちの小田急ロマンスカーの前身ともいえる観光特急の運行を開始している。

 短期間で成長を遂げた小田急であったが、利光体制はあっけなく幕を下ろす。大きな利益を上げていた電力事業が事実上国有化されたうえ、中国での鉱山事業で大きな負債を抱えたことから、利光は1941年に小田急を東横グループ(現在の東急グループ)創業者・五島慶太に売却。世は戦時体制であり、1942年には東横電鉄、京浜電鉄(現在の京浜急行)などと合併、通称「大東急」が発足することとなった。

 利光は1945年に死去。1955年には向ヶ丘遊園内に「利光鶴松翁の頌徳碑」が建てられた。

◆大分県人が成長させた小田急

 戦後、小田急を成長させたのも、利光と同じ大分県人の安藤楢六だった。

 安藤楢六は1900年に大分県浜脇町朝見(現在の別府市朝見)で生まれ、1925年に叔父の知り合いであった利光鶴松を頼って小田急に入社した。先述したように利光鶴松は大分県人を積極的に採用しており、安藤もその1人であった。

 小田急電鉄は1942年に東横電鉄などと合併して「大東急」を形成していたが、第二次世界大戦後、1948年に小田急が再び分離・独立した際に初代社長に就任したのが安藤だった。

 安藤は小田急の復興を推し進めるのみならず、戦後の発展のなかでさらなる多角経営化を図り、小田急を成長軌道へと乗せた。

 安藤による経営多角化の1つが「観光開発」だ。戦後、小田急グループは東急グループと協力して箱根の観光開発を行うべく1950年に戦時中に運休していたケーブルカーの運転を再開、同年に箱根観光船を設立したほか、箱根エリアで新規バス路線の開設などをおこなった。

◆現在でも人気の「観光ルート」が完成

 一方、1920年より箱根で観光開発を行っていた西武グループは1947年に小田急(当時は大東急)傘下の箱根登山鉄道と並行するバス路線の開設を計画(1950年運行開始)。これが発端となり両グループは激しく対立、争いは裁判へと持ち込まれた。俗にいう「箱根山戦争」だ。この間、小田急は1957年に特急型車両「ロマンスカー」の運行を開始するなどして、さらなる集客へと乗り出した。

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