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「平安京への遷都(794年)」の理由は“怨霊”だった…学生時代に習った日本史は間違っている?

日刊SPA! / 2024年9月3日 8時50分

 そして早良の死後、次々と不幸な出来事が起きる。

「早良の遺体は淡路島に葬られたが、やがて桓武の身の回りで不幸が相次ぎます。

 夫人の藤原旅子(りょし)、母親の高野新笠(にいがさ)、皇后の藤原乙牟漏(おとむろ)、夫人の坂上又子(またこ)と、次々と親族が亡くなり、皇太子となった息子の安殿親王(あてのみこ)が原因不明の病にかかってしまいます。そのうえ天候不順による凶作となり、天然痘が猛威をふるい、長岡京も二度の大洪水にみまわれました」

 あまりにも不幸が続いたため、桓武は占いをすることにした。

「桓武天皇が卜筮(ぼくせい)で占わせると「すべては早良親王の崇(たたり)りである」との卦(け)が出たのでした。驚いた桓武はすぐに淡路島に使者を遣わして早良の墓を清掃し、供養してその霊を慰めました」

 けれど以後も悪いことは一向に収まりません。

「桓武天皇は早良の祟りだと信じ、神経をすり減らしていきました。たとえば宮門が倒れて牛が下敷きになって死ぬと、「私は丑年生まれゆえ、自分の死を暗示しているのだ」とか、寝ながら屋根の雨音を聞いていて、突然「土が降っている」と言って外へ飛び出すなど、神経過敏な状態になってしまうのです。

 こうして、とうとう長岡京を捨てて平安京へ再遷都することにしたのです」

◆教科書にも遷都は怨念の仕業と記述されている

 これは、すでに研究によって知られていた事実だが、昔の教科書は、科学的でないと考えたのか、平安京遷都の理由を長岡京が二度の洪水に見舞われたからとしていた。しかし、近年は以下のように記されている。

「早良親王はみずから食を断って死に、その後、桓武天皇の母や皇后があいついで死去するなどの不幸が早良親王の怨霊によるものとされた。そのほか、長岡京がなかなか完成しなかったことも、平安遷都の理由とされている」(『詳説日本史B』山川出版社 2018年)

 このように教科書も遷都は怨霊の仕業としているのである。

◆道真の祟りに苦しめられた醍醐天皇

 ちなみに桓武天皇のほかにも、怨霊に苦しんで死んでいった歴史上の人物はたくさんいると、河合先生が言う。

「醍醐天皇は、『右大臣の菅原道真が娘婿の斉世(ときよ)親王(醍醐の弟)を即位させようと企んでいる』という左大臣・藤原時平の讒言(ざんげん)を信じて道真を大宰府に左遷しました。

 しかし、道真の死後に天変地異が相次ぎ、時平も若くして急死、宮中にはたびたび雷が落ち貴族が死んでしまいました。

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