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「平安京への遷都(794年)」の理由は“怨霊”だった…学生時代に習った日本史は間違っている?

日刊SPA! / 2024年9月3日 8時50分

 このため朝廷は道真が怨霊(雷神)化したと恐れ、その鎮魂のために北野天満宮や大宰府天満宮を建立した。なお、醍醐天皇も息子や孫を失い、それを道真の祟りだと信じて失意のうちに亡くなっています」

◆藤原道長も怨霊の犠牲者だった!?

 摂関政治の全盛期を築いた藤原道長も怨霊に苦しんだとか。

「権力を握ってからたびたび胸に激痛を覚えるようになるが、道長は、これは自分が蹴落とした貴族たちの怨霊だと信じました。とくに藤原延子(えんし)の仕業ではないかと疑ったのです。

 延子は、三条天皇の東宮(皇太子)である小一条院敦明(あつあきら)親王の妻だったが、敦明は道長によってその地位を降ろされました。延子が三人の皇子や皇女を産んでいたので、敦明が即位すると、延子の父・左大臣藤原顕光が外戚として権力をにぎると危惧したのです。

 ただ、道長は政争の犠牲になった敦明親王を憐れみ、自分の娘・寛子(かんし)を彼に嫁がせました」

◆延子の霊が寛子に乗り移って……

 すると敦明は寛子に夢中になり、延子のもとを訪れなくなったという。

「このため延子は道長を憎悪したまま亡くなったのです。だから道長は病を癒やすため、剃髪して延子らの霊を慰めました。

 けれども1025年7月、娘の寛子が拒食症によって死んでしまいます。道長が見舞ったさい寛子は『お前の敦明親王への措置はひどい! その恨みで私が死ななくてはならなかったことは悔しい!』と叫んだそうです。

 それは、延子の霊が寛子に乗り移ったのだと。それから一月も経たない8月5日、今度は娘の嬉子(きし)が死んでしまいます。二年後には息子の顕信(あきのぶ)が急死、同年の9月には娘で皇太后の妍子(けんし)も病死しました。道長はこれにショックを覚え、同年12月に亡くなってしまったのです」

◆日本最大の怨霊、崇徳上皇の壮絶な最期

 日本最大の怨霊ともいわれるのが崇徳(すとく)上皇。

「崇徳は後鳥羽上皇の長男で、保元(ほうげん)の乱で後白河天皇方に敗れ、讃岐国(香川県)に流されました。その後、崇徳は都に戻りたいと後白河に哀願するが、拒絶されてしまいます。

 絶望した崇徳は「我、生きていても無益なり」(『保元物語』)と叫び、以後、髪も爪も伸びるにまかせ、天狗のような姿となり、まもなく息絶えました。

 ただ、死の直前に五部大乗経を手に、「日本国の大魔縁(だいまえん)(大悪魔)となりて、皇(皇室)を取って民(庶民)となし、民を皇となさん」(『保元物語』)と魔界と契約をかわし、舌を噛み破って流れ出た血で経典に呪詛(じゅそ)の文言を書き付け、荒れ狂う海に投じたといいます」

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