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【100歳 甲子園球場物語】原点は「速報板」メディアとともに育った聖地 アナログPVにラジオ実況

スポニチアネックス / 2024年5月10日 7時1分

第3回選抜大会(1926年)、大阪・中之島公園に設けられた大毎野球競技板=『選抜高校野球40年史』(毎日新聞社)=

 完成した阪神甲子園球場の野球人気を押し上げたのはメディアの力が大きかった。春夏の甲子園大会を主催する新聞社の報道、NHKラジオによる国内初のスポーツ中継が野球を広めていった。甲子園はスポーツとメディアのコラボレーションの原点だった。 (編集委員・内田 雅也)

 甲子園球場が完成した1924(大正13)年8月、13日から第10回全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)が開かれた。初日は観衆1万人。だが4日目には早くも満員となった。当時はアルプススタンドもなく収容人員4万5000人だったが、盆休みと週末が重なり4万を超える大観衆が詰めかけた。

 この後、春夏の甲子園大会は観衆が増え続けた。入場券を求める「徹夜組」も甲子園の名物となった。試合が終わっても球場内にとどまり、座席で夜を明かす者まで現れた。

 そのうち「満員札止め」で入場できず、場外に人があふれるようになった。来場できない人びとのために、場外に試合の模様を伝える速報板が開発された。

 1926(大正15)年の第3回全国選抜中等学校野球大会で主催の大阪毎日新聞社(大毎)が大阪・堂島の本社前に「大毎野球競技板」を設置した。巨大な盤上にイニングスコア、選手名を書き、ボールカウントを知らせ、ダイヤモンドを描いて、ボールと走者が動く仕掛けになっている。甲子園球場から電話連絡を受けた担当者が人力で動かした。

 球場の設計者、後に阪神電鉄社長、球団オーナーを務めた野田誠三は社史『輸送奉仕の五十年』のなかで「面白かった。電話で報(しら)せてくる戦況を芝居っ気たっぷりに動かしてね」と語っている。時には投球の曲がり、変化球を伝えた。

 速報板は大人気となった。まだラジオ中継もない時代、今で言うパブリック・ビューイング(PV)である。堂島の大毎本社前は人だかりで混乱し、当局と相談のうえ、中之島公園に移設した。

 同年夏の大会では大阪朝日新聞社(大朝)も同様の速報板を設けた。「プレヨグラフ」と呼んだ。大リーグですでに1890年代からあった「playograph」の名をそのまま使った。中之島公園、京都・円山公園、さらに甲子園浜海水浴場にも設置した。この夏から阪神電鉄甲子園駅が常設駅となり、路面電車の甲子園線も開通。多くの人でにぎわった。

 毎日、朝日のし烈な販売競争がスポーツ事業の拡大を呼んでいた。関大教授・黒田勇の『メディアスポーツ20世紀』(関西大学出版部)に大毎社長も務めた奥村信太郎の回顧があり<催し物とスポーツ、この二つで大朝をせめたてた><日本のスポーツと新聞社の関係は不可分のものである>と記している。

 大毎は27年の第4回選抜大会で優勝校を北米(米国、カナダ)に派遣するという破天荒な特典を発表した。開幕日の甲子園には10万人が訪れたと記録にある。優勝した和歌山中(現桐蔭高)の選手たちは夏休みの間、北米各地を旅行して回り、帰国後は御堂筋で凱旋パレードを行った。

 同年夏の大会では日本の放送史上、歴史的な出来事があった。開幕日の8月13日、NHK大阪放送局(JOBK)によるラジオの実況中継が行われた。国内初のスポーツ実況中継だった。

 「JOBK、こちらは甲子園臨時出張所であります」と第一声を発したのは入局2年目のアナウンサー、魚谷忠だった。夏の第2回大会(31年・豊中)に市岡中(現市岡高)の三塁手として出場、準優勝していた経験が買われた。たった一人で全試合を伝えた。

 放送席はネット裏最前列に設けられた。電波は球場内食堂に特設された臨時放送局から大阪・四天王寺の中継所を経て、馬場町の大阪放送局まで送られた。電器店や百貨店のラジオの前は黒山の人だかりとなった。

 新聞報道では大朝が飛田穂洲、大毎が橋戸頑鉄、井口新次郎ら当時の球界重鎮を起用、花形記者として健筆を競った。甲子園はメディアとともに育っていった。 =敬称略=

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