横綱・照ノ富士、相撲とは「国技として日本人だという誇りを思わすためにあるもの」“2回”の相撲人生を完全燃焼
TBS NEWS DIG Powered by JNN / 2025年1月24日 12時0分
大相撲の横綱・照ノ富士(33)が東京・国技館で開催中の初場所で引退した。今後は横綱の特権でしこ名のまま、「親方照ノ富士」として後進の指導に当たる。優勝10回、大関からひざの大けがで序二段まで転落。そこから再起した「不屈の男」は、引退会見で、相撲人生と横綱として自らが果たしてきた責任をかみ締めるように言葉を発した。
1月17日、初場所6日目の取組が進む中、照ノ富士は国技館内の会議室にいた。横には師匠の伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)。まず代表質問で引退を決断した経緯を問われ、「思い通りの相撲が出来なくなり、中途半端な気持ちと体で土俵に立つべきではない、と思った。初日(若隆景)負けた日に、師匠に『もう一回負けたら引退したい』と話をした」と答えた。14年間の力士生活には、「良い時も、悪い時もあったが、相撲人生を2回楽しむ良い機会になったと思う。全く、もうちょっとという気持ちはないですね。逆にいうと、やり過ぎたかなと思う」と静かに話した。
まさに、波乱万丈。その2回の相撲人生を完全燃焼したと言える土俵での戦いぶりだった。
今は日本国籍を取得して本名杉野森正山(すぎのもり・せいざん)。モンゴル名ガントルガ・ガンエルデネは鳥取城北高を経て19歳だった2011年5月の技量審査場所(八百長事件後の無料公開場所)で初土俵を踏んだ。1回目の相撲人生の当初は、元2代目横綱若乃花の間垣部屋に所属していた。しこ名は「若三勝」。部屋の閉鎖に伴い、幕下時代に現在の伊勢ケ浜部屋に移籍。新十両昇進に合わせて現在の「照ノ富士」のしこ名に改めた。
新弟子時代から190㎝、160㎏の体格を生かした怪力相撲で順調に番付を挙げ、関脇で初優勝した15年夏場所後には大関へ昇進した。その頃から「綱」を期待されていたが、当時は立ち合いから腰高で胸を出して突っ立っている印象だった。脇も甘く、それを逆に自分の持ち味にして相手を引っ張り込んで両差しにさせ、外から極めて腹に乗せ、力任せに振り回す取り口が目立っていた。普通は相撲の2大欠点である腰の高さと脇の甘さがあると、なかなか結果は出せない。だが、その常識を覆すほどの体力があった。自信が強引さにつながっているように見えた。伊勢ケ浜親方は「けがをしやすい相撲で、いつかけがが来るかなという気持ちだった」と振り返る。
その心配が的中した。大関13場所目の17年名古屋場所で左ひざを負傷。その後、糖尿病も悪化し、途中休場等で6場所連続負け越しとなった18年夏場所で再び、左ひざを痛めて手術に踏み切った。この時の番付が十両8枚目。翌場所から4場所全休して、再起を図った19年春場所の番付は序二段48枚目まで落ちていた。
だが、そこから照ノ富士は生まれ変わった。もう力任せの相撲は取れない。師匠の教えを忠実に守り、腰を落として膝を曲げ、前傾姿勢で脇を固めた。元々持つ身体能力に技巧派横綱だった師匠の理詰めの取り口が加わった。そして再び、頂点を目指した第二の相撲人生が始まった。
全休して番付が十両から幕下、三段目、序二段と急降下する間に本人は何度も引退を申し出たという。だが、「諦めないように、悔いを残さないように」と現役続行を勧めた師匠の言葉と家族、周囲の励ましに支えられた。会見で「思い出の一番」を聞かれた時に当時を思い起こすように言葉が出た。「一番一番の相撲に全力を尽くしてやってきたが、あえて言うと、序二段に落ちて土俵にもう一回立った最初の相撲じゃないかな。この14年間の相撲人生の中で一番緊張した、ソワソワした、納得したのがこの一番」。
その後は5場所で十両に復帰。再入幕した20年7月場所(コロナ禍で国技館開催)で2度目の優勝を飾った。3度目の賜杯を抱いた21年春場所後に大関に再昇進。白鵬に千秋楽全勝相星決戦で敗れた同じ年の名古屋場所後に、横綱を射止めた。ここまで14場所連続の勝ち越しだった。
ただ、横綱昇進時から「長くは取れないだろうという気持ちでいた」と話した。持病の両ひざと糖尿病で、すでに満身創痍だった。土俵入りも異例の両ひざサポーターで務めた。その体を揺り動かしていたのは、湧き出る闘志だ。「自分は、今まで相手と戦うというよりも自分との向き合い方を一番に考えてきた。『誰よりも努力して、自分に嘘をつかないで自分に負けるな』と、言い聞かせていた」という。
新横綱で優勝した場所で白鵬が引退。その後、20場所は一人横綱だった。後進が育つまでの思いも体に鞭打つ要因だった。「(6日目時点)今場所は2人の大関の綱取りもかかっている。新しい大関の誕生、若い力も多く出てきているので、本当にみんなの活躍が楽しみでしょうがない」。背負ってきた重荷を任せられる存在が見えてきた安ど感も漂っていた。
相撲とは何か、の質問には「ただのスポーツではなく、国技として私たちは日本人だという誇りを思わす、奮い立たせるためにあるものの一つ。多くの方がリスペクトし、支えてくれている。だからこそ、綺麗に美しくないとダメなもの」と答えた。
横綱とは、の問いには「力士の見本にならないといけない、目指さないといけない地位なので、求められることもたくさんある。なったら、なったで、それを感じ取ると思う。言葉で表せないけど、横綱は横綱かな、と思う」。また、「横綱に上がるまではがむしゃらに『ただ、強くなりたい。横綱になりたい』という思いで稽古に取り組んできたが、横綱になってから本当の奥深さというか、国技としてどういうものか、ちょっとずつ感じるようになり、それを深く思うようになった」と語った。
そして「大相撲ファンへ一言」と言われて、「本当にありがとうございます。ファンの方々の温かい声援があったからこそ、横綱まで上がれたと思うし、休場してみんなの期待に応えるような成績が残せなかった時も温かく見守って頂いたので、本当に感謝しかない」と心から御礼を述べた。
横綱在位は21場所。この間、15日間皆勤は8場所しかなった。だが、うち優勝が6度。皆勤すれば、優勝する地力は証明してきた。しかし、23年は優勝1度で、残りは休場。昨年も2度の優勝はあったが、それ以外は土俵から姿を消していた。そんな休場続きでも、朝青龍や白鵬のように横綱審議委員会が苦言を呈することがなかったのは、本場所の途中に開催されている巡業には参加し、きちんと土俵入りを披露するなど、常に横綱としての責任を果たしてきたと認められていたからだと思う。
横綱在位も、横綱勝ち星(114勝)も、曙以降、武蔵丸、朝青龍、白鵬、日馬富士、鶴竜を加えた7人の外国出身横綱では最も少ない。だが、挫折を乗り越え、「奇跡」と言われる復活劇を果たした雄姿は、たくさんのファンに愛され、記憶に残る存在として語り継がれて行くだろう。
(竹園隆浩/スポーツライター)
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