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中3平均身長166cmで世界に突進した田中史朗 武器はタックル、W杯で奇跡呼んだ恐怖を超越した勇気【引退惜別コラム】

THE ANSWER / 2024年4月25日 11時33分

166センチの小さな体で世界と渡り合い、戦い続けた田中史朗【写真:Getty Images】

■今季限りで引退表明した“小さな巨人”の栄光の足跡

 ラグビー日本代表SHとして75キャップを誇る田中史朗(NECグリーンロケッツ東葛)の引退会見が24日に行われた。ラグビー選手では小兵の身長166cm、体重75kgのサイズながら、2015年ワールドカップ(W杯)イングランド大会の南アフリカ代表撃破、そして19年日本大会でのベスト8進出と日本代表の背番号9として新たな歴史を築いてきた。中学3年生の平均身長に近い小さな体のどこに世界で渡り合うラグビープレーヤーとしての資質が秘められていたのか。ジャパンの“小さな巨人”の栄光の足跡とともに考える。(文=吉田 宏)

 ◇ ◇ ◇

 愛称は“フミ”。多くのファン、選手から愛されてきた9番が、今季限りでの現役引退を表明した。会見が行われたのは新宿・ヒルトン東京。ラグビー選手個人の会見としては異例のゴージャスな会場となったが、故郷の京都でも、所属チームの拠点の千葉・東葛エリアでもなく日本代表時代のチーム宿舎としても馴染みのある場所を花道に選んだ。

「私、田中史朗は、今シーズンの終了を持ちまして現役を引退することを決めましたので、皆さまにご報告させていただきます。17年間という長い現役生活でしたが、最高に幸せな時間でした。この小さな体でここまでプレーできたこと、日本代表としてW杯に出て新しい日本の歴史を築けたことは私の誇りです。沢山のチームメート、チーム関係者、メディアの方々、そしてファンの皆様、なにより家族のサポートがあって、ここまで続けて来られました。本当に感謝しています」

 涙をこらえるように感謝の思いを口にした39歳は、紛れもなく桜のジャージーの歴史に名を残した9番だ。初キャップは埼玉パナソニックワイルドナイツの前身、三洋電機2シーズン目の2008年だが、その名は今は無き京都・伏見工高時代から知れ渡っていた。

「伏工にすごいSHがいる」

 そんな声が関東にも届いていた。故平尾誠二さんをはじめ多くの名選手を輩出した伏見工高から京都産業大学と、学生時代は関西でのプレーが続いたが、いがぐり頭に小学生のような童顔ながら、見た目とはかけ離れたえげつないタックルで注目されてきた。このポジョンの資質でもある負けん気の強さがプレーに滲む9番だが、パスワークも当時の学生レベルでは群を抜いていた。

 そんな小さな9番が「いいプレーヤー」だけに止まらなかったのは、自分を成長させようというポジティブな欲深さだ。京都産業大学時代には単身ニュージーランド(NZ)・オークランドに留学。スキルと同時に、相手に名前負けしない度胸や、チャンスを自分から掴みに行くトップアスリートの貪欲さも身に着けた。三洋電機時入団後の2013年シーズンにはオタゴ(行政区)代表が母体のハイランダーズ入りして、日本選手として史上初のスーパーラグビープレーヤーとなった。

 当時のハイランダーズには、現在トヨタヴェルブリッツでプレーするNZ代表125キャップのアーロン・スミスがSHに君臨していたため、出場の大半はベンチスタートという境遇だった。それでもチームメート、地元ファンから「Fumi」と呼ばれ愛されたのは、伏見工時代と変わらないサイズの差をものともしない攻撃的なタックルのため。タックルと勇気に満ちたプレーが尊敬されるのは、目の肥えたファンばかりのラグビー王国をはじめ世界共通の掟だ。


会見後にサプライズゲストに登場した松島幸太朗(東京SG=左から1人目)、松田力也(埼玉WK=同3人目)に挟まれ、泣き笑いの表情を浮かべた田中【写真:吉田宏】

■15年W杯南ア戦、苦境で見せた恐怖を超越した勇気と勝利への飽くなき情熱

 引退の理由は明白だった。

「本当に体がキツイというのがまず1つ。そして下(若手)からも、すごくいいプレーヤーが出てきているというのも、悲しくもあり嬉しくもあった現状で、本当に日本ラグビーがすごくレベルアップしていて、僕の今のパフォーマンスで現役を続けているのが、正直やっていていいのかなという部分もあった。今シーズンも試合には出られていましたが、そんなにいいパフォーマンスが出来ているわけじゃなかったので、シーズンの半ばで決断させていただきました」

 迷いながらも、自分自身の体力を見つめ、若手の成長を感じながらジャージーを脱ぐ時が訪れたと自ら決意した。会見では、引退への思いと同時に最大の理解者であり心の支えだった家族への感謝も伝えている。

「自分のモチベーションを上げてくれる存在でしたし、子供たちの笑顔をみたくて頑張ってきた部分もあります。何よりも妻がアスリート(バドミントン選手)だったので、優しかった部分もありましたが厳しい部分もあって、一緒に頑張ろうとずっと言い続けてくれた。本当に妻がいたからこそ、ここまでやってこられましたし、妻のおかげで本当に最高のラグビー人生を送れたなと感じています」

 代表キャップ75は日本歴代7位。SHでは最多になる。そんなフミは、2008年の初代表入りからジョン・カーワン、エディー・ジョーンズ、そして昨秋まで指揮を執ったジェイミー・ジョセフと、歴代指揮官からメンバーに選ばれてきた。もちろんSHというパス供給役ながら、どんな相手にも喰らいつくタックルがチームに必要な武器と評価されたからだ。

 引退会見でフミ自身が「日本の皆さんに感動を届けられたんじゃないかと思うので、あの試合が(代表戦で最も)印象に残ります」と振り返った2015年W杯での南アフリカ戦では、この9番の真骨頂も見せている。本人は悔やんでいたプレーだが、22-22からの後半22分の南アフリカ代表のトライシーンでは、身長185cm、体重113kgのHOアドリアン・ストラウスの突進に、20cm、40kg小さい9番が真っ向から突き刺さっている。結果的にはタックルを吹っ飛ばされてスコアを許してしまったのだが、苦境の中でチームで最も小さな男が見せた恐怖を超越した勇気と勝利への飽くなき情熱が14人の仲間を奮い立たせ、ラストワンプレーでの奇跡の逆転へ繋げた。

 その持ち味は、タックルばかりではない。代表でのキャリアを重ねる中で、本人はいつも後輩SHたちを「自分よりはるかにスキルの高い選手がどんどん出てきている」と何度も語っていた。新たに加わってきた流大らのパススキルや、当時重視され始めていたSHのキック力は、自分にはないものだと認めていたのだ。だが、敵陣ゴール前のトライチャンスなど勝負どころで見せた低く抑えの効いた鋭いパスは、他の追随を許さないものだった。

 取材する側としては、技術の領域というよりも感性や経験値によるものだと感じていた。名門・伏見工高時代から、どのような状況で、どこまで集中力を高めて、その状況下で何をしなくてはいけないか、何をしてはいけないかを、頭の中だけではなく体で覚えている選手だという印象を受けた。

 日本代表は、世界に挑んでは弾き返される敗者の歴史を積み上げてきた。その中で、小柄な選手にも活躍のチャンスがあるSHには好選手が名を連ねてきた。今里良三、日本代表監督も務めた故宿沢広朗、堀越正己、村田亙……。その系譜の中で、パスワークと同時にタックルでも世界に挑んできた稀有の存在が田中史朗という9番だった。

■引退後に描くジャイアントな夢「将来的には日本代表のHCを」

 プレー以外でも、日本代表の強化を後押ししてきた。すでに昭和の根性論は遺物となっていた時代だが、その中でも練習中にもチーム、選手への苦言を敢えて口に出していた。口癖のようにいつも話していたのは「コミュニケーション」。1つの些細な練習メニューでも、選手間でコミュニケ―ションが出来ていたのか、どういう意図でプレーしたのか……。グラウンドでは、いつもフミの厳しい声が聞こえていた。2014年のカナダ遠征では、テストマッチ間近の練習で、プレーを止めて「こんな準備で勝てるのか」と選手に苦言を呈していたが、そんな“嫌われ役”も日本代表が強くなるためには厭わなかった。

 引退会見では多くの質問がされる中で、これからの代表選手たちに何か伝えたいことがあるかを聞くと、フミらしい厳しさを込めたエールが返ってきた。

「シンプルに、世界はそんなに甘くないと伝えたいですね。本当に厳しい世界ですし、日本だけが努力して、しんどいことしているわけではない。やはり、いろいろな人と繋がりながら、世界の情報を得ながら、日本のラグビーを築いていかないといけないので、そういう部分ではもっともっと人とのコミュニケーションを、小さい頃から取れるようにしてほしいですし、日本全体としても英語を学びながら世界にチャレンジする意識を持ってもらいたい」

 桜のジャージーの“小さな巨人”と呼ばれてもいい現役人生にピリオドを打つが、9番のジャージーを脱いだ後はジャイアントな夢も思い描く。

「今後ですがNECグリーンロケッツ東葛のアカデミーのコーチとして普及活動を続けていく予定です。幸運なことにエディー・ジョーンズ、ジェイミー・ジョセフ、トニー・ブラウンという素晴らしいコーチが周りにいるので、彼らからコーチングを学び、将来的には日本代表のHCをやりたいと考えています」

 直近の役割としては、現役プレーヤーに近い立ち位置で子供たちに刺激を与えながら、その先に、強い関係性を築いた歴代代表指導者らと継続的な関係を持ちながら、再び世界に挑んでいくという。

「やはり選手として日本代表で試合に勝つことの喜び、日本の皆さんが喜んでいただけることを感じたので、それをもう一度味わいたい。プレーヤーとしてずっと継続することは出来ないので、次はコーチになって、そういう部分を選手に味わってもらいたい。そしてファンの皆様、日本の皆様に感動を味わってもらいたいと思っています」

 ジャージーは脱いでも、少年時代から抱き続ける勝つことと、勝利がもたらす感動や喜びを仲間、ファンと分かち合いたいという飽くなき欲求は変わらない。

■田中史朗(たなか・ふみあき)1985年1月3日生まれ。39歳。京都・洛南中―伏見工高―京都産業大学から2007年に三洋電機(現埼玉パナソニックワイルドナイツ)入り。19年からキヤノンイーグルス、22年にNECグリーンロケッツ東葛移籍。08年に日本代表入りして通算75キャップ。13年から16年シーズンまでハイランダーズでプレー。W杯は11年、15年、19年大会に出場。(吉田 宏 / Hiroshi Yoshida)

吉田 宏
サンケイスポーツ紙で1995年からラグビー担当となり、担当記者1人の時代も含めて20年以上に渡り365日欠かさずラグビー情報を掲載し続けた。1996年アトランタ五輪でのサッカー日本代表のブラジル撃破と2015年ラグビーW杯の南アフリカ戦勝利という、歴史に残る番狂わせ2試合を現場記者として取材。2019年4月から、フリーランスのラグビーライターとして取材を続けている。長い担当記者として培った人脈や情報網を生かし、向井昭吾、ジョン・カーワン、エディー・ジョーンズら歴代の日本代表指導者人事などをスクープ。ラグビーW杯は1999、2003、07、11、15、19、23年と7大会連続で取材。

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