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【ラグビー】田中史朗 引退発表会見に松島と松田がサプライズ登場で大号泣「頑張って泣かんかったのに…」

スポニチアネックス / 2024年4月24日 17時7分

松島(左)と松田(右)のサプライズ登場に笑顔を見せる田中史朗(撮影・会津 智海)

 ラグビー元日本代表のSH田中史朗(39=東葛)が24日、東京都内で会見に臨み、今季限りでの現役引退を発表した。日本代表で歴代7位の通算75キャップ、W杯3大会連続出場、日本人初のスーパーラグビー(SR)プレーヤーなど、数々の記録と記憶に残る活躍で一時代を築いた名スクラムハーフが、ジャージーを脱ぐことになった。

 会見に登壇した田中は集まった報道陣に向かって一礼すると「私、田中史朗は今シーズンの終了をもちまして、現役を引退することを決めましたので皆様にご報告させていただきます。17年間という長い現役生活でしたが、最高に幸せな時間でした。本当にありがとうございます。」と目に涙を浮かべ、声を詰まらせながら引退の決意を報告した。

 会見の最後には日本代表でともに闘った松島幸太郎と松田力也がサプライズ登場。田中は「びっくりした。言ってないんでうれしい。さっき頑張って泣かんかったのに…」とあふれる涙をこらえることができなかった。松島は「本当にお疲れさまです。ジャパンに入ったときからずっとお世話になった」。と話し、松田は「高校から見てる憧れの選手。プライベートでもかわいがってもらった。涙を近くで一番最後に見られてよかったです」と笑わせた。

 そして松島からはウイスキー「山崎」、松田からは花束が贈られ、田中は「若い頃から日本を引っ張ってくれた2人なので。世界のトップクラスのプレーヤー。あとはリーダーシップを持って日本を引っ張っていってくれれば…ほんまにありがとう」と笑顔を浮かべ、期待を寄せた。

 京都出身で九条ねぎ農家に生まれ育った田中は、9歳でラグビーを開始。高校は平尾誠二氏らを輩出した屈指の名門・伏見工(現京都工学院)に進み、3年の時には主力として全国大会4強入りに貢献。京産大を経て07年に三洋電機(現埼玉)入りすると、08年のアラビアンガルフ戦で日本代表初キャップを獲得。正確なパスワークと優れた状況判断を武器に、代表でも9番に定着した。

 W杯には11、15、19年と3大会に連続出場。初出場だった11年大会では91年大会以来の白星が期待されながら、1分け3敗と未勝利に終わった責任を痛感し、海外挑戦を決断。13年に同じく今季限りで引退するフッカー堀江翔太とともに、日本人初のSRプレーヤーとしてハイランダーズ(ニュージーランド)に入団。後に日本代表ヘッドコーチになるジェイミー・ジョセフ氏の下、15年には世界最高峰リーグで初優勝に貢献した。

 同年にはエディー・ジョーンズ・ヘッドコーチ率いる代表で2度目のW杯に出場。先発した1次リーグ初戦の南アフリカ戦ではプレーヤー・オブ・ザ・マッチに輝く活躍で、歴史的大金星をもぎとった。その後は日本ラグビー界の“顔”の1人として、全5試合途中出場だった19年W杯でも史上初の8強入りに貢献した。同大会の準々決勝・南アフリカ戦が、結果的に最後の代表戦出場となった。

 「これからも日本ラグビーをよろしくお願いします」が決まり文句で、代表や所属チームの勝利、競技の普及・発展、人気拡大のためには時として周囲との衝突や自己犠牲をいとわなかった。プライベートでは11年にバドミントンの実業団選手だった智美さんと結婚し、その後一男一女をもうけた。感情豊かで試合では自分より二回りも大きな外国人選手に食ってかかることもあれば、人目をはばからず号泣することも珍しくなかった。

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