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山手線目黒駅が「目黒区にない」ごく簡単な理由 所在地は品川区、現代と異なる「駅前」の感覚

東洋経済オンライン / 2024年1月17日 6時30分

起伏が激しい丘陵地を横切ることになったが、費用には糸目をつけず、築堤(恵比寿―渋谷間や高田馬場―目白間など)や切り通し(目白駅付近など)を駆使して、蒸気機関車の大敵である勾配を最大10パーミルに抑えた。

目黒駅付近も目黒川沿いに線路を敷いたのでは遠回りになるため、白金台をストレートに横切るルートが取られた。目黒村が鉄道を忌避し反対運動を行ったという説は、裏付ける文献がなく都市伝説の域を出ない。

開業当時は1872年に日本で初めての本格的な鉄道が開業してからすでに10年以上。いつでも汽車見物に出かけられるような場所にある東京近郊の村が、鉄道の絶大な経済的効果を知らないはずがないと考えるほうが自然だ。

国策による鉄道だったからこそ、むしろ買収しにくい集落近くを避け、地元の意向など無視して、早期完成を目指したとしてもおかしくはない。

江戸時代の感覚では「駅近」

今日、目黒駅の所在地は品川区上大崎で、目黒区ではない点が豆知識としてよく披瀝される。目黒村の隣の上大崎村の村域に建設され、そのまま現在まで引き継がれているのだ。

初期の鉄道駅は山手線に限らず、必ずしも駅名と同名の集落に近接した位置に設けられたとは限らなかった。そのあたりも現代の感覚とは違う。原宿、新宿、高田馬場、大塚といった駅も、駅名の由来からかなり離れた場所に設けられたのは、これまで紹介してきたとおり。

江戸時代の感覚が残っていた時代は1里(4km)やそこらまでは十分に徒歩圏内。「駅前のうち」だったのだろう。目黒駅は、たまたま行政区の境が間に引かれたせいで話題となるだけで、目黒村の中心を流れる目黒川沿いまでは、急な坂道ではあるが歩いて十数分。むしろ、昔からの集落に近いとすら言える。

品川線の駅設置基準は明白で、江戸時代から続く主要道路との交差地点が基本だった。渋谷駅は大山街道、新宿駅は甲州街道と青梅街道、目白駅は清戸道、板橋駅が中山道である。目黒駅も目黒通り(二子街道)と交差する地点にある。古くからにぎわっていた通りだ。

ところが品川線が開業した直後の明治20年代の古地図を見ると、現在とは異なる場所に目黒駅があることに気がつく。山手線は目黒―五反田間で首都高速2号目黒線をくぐるが、その少し目黒駅寄りに、徳蔵寺という古地図にもある寺があり、その付近に描かれているのだ。現駅とは500mほど離れている。

目黒駅は移転していた

今は切り通しの中になった目黒駅の西側の脇に、細い道が山手線と並行している。急坂を下ってゆくと、「JR目黒MARCビル」の前にわずかに平坦な区間がある。古地図の記述を信じれば、ここが開業時の目黒駅の跡だ。

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