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松本人志不在の「M-1グランプリ」はどうなるのか 審査員になった経緯、若手漫才師に与えた影響

東洋経済オンライン / 2024年1月27日 12時30分

松本人志氏(第64回ロカルノ国際映画祭時の写真)(写真:AP/アフロ)

「週刊文春」による性加害疑惑報道を受け、裁判に専念するとの意向から芸能活動を休止しているダウンタウン・松本人志。レギュラー番組を7本抱える人気芸人であり、多くの企画を生み出してきたヒットメーカーでもあるため、今後もさまざまな面で波紋を呼ぶことが想像される。

【写真】多くの若手芸人に影響を与えた、松本人志著『遺書』

とはいえ、やはり多くの視聴者が気になるのは年末の一大イベント『M-1グランプリ』への影響ではないだろうか。

紳助の意志を引き継いだ松本

M-1は2001年~2010年でいったん幕を閉じ、2015年に出場資格を「結成10年」から「結成15年」に変更し再スタートを切った。2011年に発起人の1人である大会実行委員長・島田紳助が芸能界引退を表明。2015年は歴代王者を審査員としたが、2016年からは松本が紳助の意志を引き継ぐ形で長らく審査員を務めてきた。

審査員の座組がなぜそうなったかは、大会の根幹について触れなければならない。そもそもM-1は、2001年に吉本興業の上層部から命じられた「漫才プロジェクト」に端を発する。

1980年代初頭に『花王名人劇場』(関西テレビ制作/フジテレビ系)や『THE MANZAI』(同系)といった番組が火付け役となり“漫才ブーム”が到来。ツービート、B&B、島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんちといった若手漫才師たちが大人気となった。

しかし、3年足らずでブームは去り、漫才はあっという間に過去のものとなっていく。1990年代は東西を問わず若者の間でコントが支持され、漫才の人気は下降の一途をたどっていた。そんなときにスタートしたのが吉本興業の漫才プロジェクトだ。

漫才プロジェクトは、当時の吉本興業社員・谷良一をはじめとするわずかな人たちによって実施された。チラシやクリアファイルを持ってテレビ局や出版社、新聞社などを訪問し、漫才文化を広めるべく奔走する。

そんな地道な活動の中で、かつて漫才ブームで一世を風靡した元漫才師・島田紳助から「若手の漫才コンテストをやったらどうや」との提案を受けた。「賞金1000万円」「漫才のガチンコ勝負」というアイデアが盛り込まれたコンテストは、それまでにないインパクトがあった。

谷は、これを受けて素人のカラオケ大会で人気を博した『よしもとカラオケ選手権』をイメージしたという。

「よしもとカラオケ選手権が普通のカラオケ番組と違ったのは、決勝の前に厳密な予選を何段階もつくったことだ。テープ審査から始まって地域予選、地区予選、準決勝と勝ち進むと、決勝はなんばグランド花月で豪華なセットをバックにして、きらびやかな照明を当てられて歌える。それぞれの段階でガチンコの審査を行って、負ければそこで終わりだった。」(谷良一著『M-1はじめました。』(東洋経済新報社)より)

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