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紫式部が青春時代に直面した「悲しい2つの別れ」 母のように接した姉の死と、もう1つの別れ

東洋経済オンライン / 2024年2月3日 11時10分

「姉君」と呼ばれた女性は、先に家族とともに旅立ったのでしょう、旅先から歌が送られてきました。「津の国といふ所よりおこせたりける」との詞書があり「難波潟群れたる鳥のもろともに立ち居るものと思はましかば」という歌が送られてきたのでした。

「難波潟」というのは、今の大阪湾(摂津国)の辺りを指します。その女性は、海鳥が干潟に群れる光景を目にしたのでしょう。そしてそれは、都の邸で暮らしてきた女性にとっては、感動的な光景だったはずです。だから、歌に詠み込んだものと思われます。

「あの鳥たちのように、あなたといつも一緒に何かしていられたらよいのに」。この歌を見て、式部は涙ぐんだかもしれません。その女性からの手紙を見たときは、すでに越前に下ってからでした。「筑紫に肥前といふ所より文おこせたるを、いとはるかなる所にて見けり」との詞書からその事がわかります。

「いとはるかなる所」というのは、越前を指します。文通相手の女性は、肥前国(佐賀県・長崎県)に赴いたことがここで判明します。女性の手紙を見た式部は、越前で歌を詠みます。「あひ見むと思ふ心は松浦なる鏡の神や空に見るらむ」と。

「あなたにお逢いしたいと思う私の心を何と言い表してよいか、とても口では表せません。でも、きっと松浦(肥前国の地名)の鏡の神様が天翔けて御照覧なさっているでしょう」との意味です。神かけて友情を誓う歌なのですが、どこか恋歌のように感じるのは、私だけでしょうか。

女性からは、年明けてから返歌が届きます。「行きめぐり逢ふを松浦の鏡には誰をかけつつ祈るとか知る」(遠い地を巡り、再び巡り合うことを待つ私は、松浦の鏡の神様に誰に会いたいとお祈りしているとお思いですか)と。2人の熱い友情が伝わってきます。

式部の父・為時が越前守に任命されたのは、996年のことでした。10年ぶりの任官だったといいますから、為時は喜んだと思われます。

失業中であっても、従者や侍女は養っていかねばならなかったので、越前守就任は、為時にとって明るい未来に思えたでしょう。

ちなみに、為時の越前守就任には、1つの逸話が残されています。実は、為時は最初は淡路守に任命されていたのです。

ところが、淡路国というのは下国(最下級の国)に区分されるところ。これを嘆いた為時は、一条天皇に仕える女房に「寒夜も一心に学問に励んできました。それは血涙を流すほどでありました。そうであるのに、その功績も認められず、力量に相応しくない官職に任命されました。任命の儀式のあった日の夜が明けた春の朝、私は空しく晴れ渡った空を眺め、思いにふけっています」との意味の文を託します。

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