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なぜ紫式部は光君を「闇抱える男」として描いたか 源氏物語が普遍的に問う「生きることの苦しみ」

東洋経済オンライン / 2024年2月4日 12時20分

角田:おもしろいですよね。山本先生のご著書に、『源氏物語』は「世」と「身」がキーワードであるとありました。「世」=「社会」、「身」=「身体」、どちらにも限りがあるということなんですけれども、紫式部は夫の死に立ち会って、その苦しみから「心」というものを発見した。

「心」は「世」にも「身」にも縛られないものであるという発見があったから、紫式部は創作に入ったのではないか。そう山本先生は書かれていましたよね。すごくスリリングで興味深かったです。

逃げるように想像した「もうひとつの世界」

山本:『紫式部集』という和歌集があります。「めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月かな」。紫式部が娘時代に親友と交わした和歌です。当時の紫式部はチャキチャキの女の子でしたが、まもなく親友が亡くなってしまう。その後、紫式部は結婚したけれども、夫もたった3年で亡くなってしまう。そこから紫式部の人格が変わっていくのを和歌に読みとることができます。

夫の死後、「世」=「社会」「時代」「世間」を見つめて、そのなかで生きる私という「身」=「身体」「身分」「身の上」というものに絶望する。ところが、その絶望の底から「心」が急にあらわれます。

一方では、「心」はどんな「身」にも順応するものなのだ、どんなに虐げられた身の上であってもいつのまにか慣れて笑ったりするものなのね、と紫式部は詠んでいます。

もう一方では、そうはいっても「心」がどんな「身」にも適応できるというわけでもないだろう、とも詠んでいます。やがて、「心」は煩悩や欲望を抱き始めて、「こんな身の上では嫌だ」と言い出したり自分を苛んだりするものだ、と考えを深めていきます。

そこまで深い人間洞察をし始めたときに紫式部は、子どもを抱えながら自分はこれからどうやって生きていこうかと思い悩み、逃げるようにしてもうひとつの世界を想像して、そこに自分の「心」を全部投入していたのだと考えます。

角田:じつは私、訳を始めたときに夢を見ました。

翻訳作業がこのままでは間に合わないというときに、ひとりで自主的に缶詰になって、1カ月ほど1日16時間ずっと翻訳をするということを、5年のうちに数回やっていたんです。そのいちばん最初の缶詰のときに、空蝉の夢を見ました。私が空蝉になったんじゃなくて、空蝉の気持ちの夢だったんですよね。

「気持ちの夢」っておかしいかもしれませんが、でも夢のなかで「これから自分にどんなにすばらしいことが起きても、私のこの身分じゃなんにもならないよ!」と思う夢でした。「なんにもならないよ!」という気持ちで目覚めて、ああ、これか、と思ったんですよね。

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