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戦術の使い手、信長にあって義経になかった視点 歴史の偉人に学ぶ「戦術」の遂行に必要なもの

東洋経済オンライン / 2024年2月5日 16時0分

では、真実の義経とはいったい何者だったのでしょうか? 

鎌倉時代に描かれた『平家物語』や『吾妻鏡』に、義経の“一の郎党”として描かれているのは、弁慶ではなく、伊勢国(現・三重県の大半)鈴鹿の峠で山賊をしていた伊勢三郎義盛でした。

『平家物語』に弁慶は、名前しか出てきません。五条の橋で牛若丸(義経の幼名)と戦ったり、立ったまま死んだというのは、『義経紀』からの創作記述です。

史実の義経は、鈴鹿山で伊勢義盛と一緒に、山賊まがいの生活を送っていたのではないでしょうか。奥州には行っていなかったのではないかと、筆者は疑ってきました。義経が伊勢義盛から、山賊流の兵法(?)を学び、それを実践したとすれば、その後の彼の活躍ぶりが説明できます。

当時の武士たちのように、正々堂々と名乗りをあげて、真正面から戦うのではなく、気づかれないようにそっと背後から近づき、いきなり襲いかかります。前述したように、舟の漕ぎ手のような非戦闘員=盲点にも攻撃を仕掛けるわけです。

こうした奇襲や奇策はすべて、勝ちさえすればいいのだ、とする山賊の生き方から学んだものであり、義経自身は卑怯なやり方とは思っていなかったのでしょう。

いい意味でも、悪い意味でも、義経には武士としての意識、教養がありませんでした。だからこそ生まれた、新しい戦術だったわけです。

現代の感覚からすれば、義経のやり方はけっしておかしなものではありませんが、源平争乱の時代の武士には受け入れられなかったようです。

もっとも、常識に縛られて同じやり方を繰り返してしまいがちな、現代の私たちも、義経のように「何でもあり」と自由に考えてみることは、発想を広げるよい訓練になるのではないでしょうか。

新しいものは常識の外側にあることを、義経は私たちに教えてくれます。

リーダーの説明、説得が不可欠

義経に足りなかったのは、むしろ部下=正規の武士に対する状況説明でした。いかに卓越した戦術であっても、周囲に認められなければ、「あいつは卑怯だ」「ズルをして勝った」と後ろ指をさされかねません。部下が新戦術を理解するためには、リーダーの説明、説得が不可欠です。

義経の周りにいた山賊出身の者たちと違い、源氏の将兵の多くは武士の誇りを大切にしていました。源平時代の武士たちにとって、戦とはまず両軍が対峙し、鏑矢がうなりを発してヒューッと鳴りながら飛んでくるのを合図に、馬上から「やあやあ、我こそは……」と名乗り合って始まるものでした。

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