1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. ビジネス

窮地の国産「和紙原料」から誕生した菓子の正体 お菓子とお茶で地元産の楮(こうぞ)を支援

東洋経済オンライン / 2024年2月5日 12時0分

重要無形文化財指定との関係で、国内産の楮を使わなくてはいけない細川紙は別にして、日本各地の手すき和紙は、輸入にも頼ってきた。かつては、中国、タイ、南米などから輸入していた。しかし、全国手すき和紙連合会の事務局、山下泰央(やすたか)さんは「南米やフィリピンからの輸入はなくなりました。現地でコーディネートしていた人が廃業したなどが理由です」と、輸入による供給も不安定と明かす。

全国手すき和紙連合会は、38団体からなる。「個々の団体や個々の工房で楮づくりをやられているが、数量など実態は把握できていない」(山下さん)という。

日本特産農産物協会の資料から作成したグラフをみると、楮の国内収穫量(黒皮換算という方法で集計)は、激減。60年ほど前の1965年には3170トンだった楮の国内収穫量は、ここ5年ほどはその1%ほどの量で低迷している。

細川紙技術者協会が「研修用の楮の地楮率を高めたい」という背景には、国内産の楮が減るなか、とにかく地元で楮を確保しなければ技術の伝承ができない、という危機感がある。取材に同席した小川町教育委員会の担当者は「人手と場所と、やっぱりお金ですよね」とため息をついた。

小川町飯田にある楮畑で、やはり1月28日、楮の刈り取りが行われた。集まったのは、アメリカ人の版画家で和紙アーティスト、故リチャード・フレイビンさんの遺志を継ぐ人々と、小川町里山クラブ“You-You”(佐藤章会長)のメンバーら計15人。

フレイビンさんは30年ほど前に佐藤会長の畑を借りて楮の株を植え、里山クラブのメンバーの助けを借りて楮作りを行った。2020年5月に76歳で逝去。妻のテキスタイルデザイナー、原口良子さんは、「フレイビンは、版画に使う和紙に興味を持ち、感動して和紙の生産地を訪ね歩きました。小川町に移住し、小川町和紙体験学習センターに通って勉強しました。そして、自分で作った和紙で版画をやりたいと、楮作りを始めたのです」と話した。

手すき和紙の魅力を「植物がそのまま生きている」と語っていたフレイビンさんの遺志を継ぎ、書道家の宍戸幸司さんや和紙研究家のカナダ人、ポール・デンホードさんらが毎年、ここで楮を刈り取り、和紙を作り続けている。

里山クラブのメンバーも引き続き、ボランティアで夏の芽かき、冬の刈り取り作業を手伝う。佐藤会長は「小川町は和紙の里というけど、材料の楮を作る畑がほとんどない、とフレイビンに言われたことが、すべての始まりでした」とあいさつし、楮を作り始めたフレイビンさんをたたえた。

細川紙技術者協会の研修員、細川紙の未来を「どうにかしなきゃ」

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください