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紫式部がつづる女流作家「清少納言」への"対抗心" ほぼ同時代に生き、同じような地位・立場だった

東洋経済オンライン / 2024年2月11日 14時0分

源雅信の娘、倫子らが集う和歌の勉強会に参加したまひろ(写真:NHK公式サイトより引用)

2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」で注目される紫式部や『源氏物語』。1000年以上も前に日本の一女性が書いた「光源氏の物語」は、書かれた当初から書写されつづけ、絵巻物にもなって、ひさしく伝えられてきました。

そんな、源氏物語にはたくさんの謎があり、作者の紫式部やその周辺の人々にも、ずいぶんと謎めいたところがあるようです。作家・岳真也さんの著書『紫式部の言い分』から、その実態に迫ってみましょう。

清少納言と彼女の活躍したサロン

「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは……」

【写真で見る】平安時代の女流随筆家、清少納言を祀っている京都市右京区の車折神社「清少納言社」

この出だしではじまる『枕草子』は、おそらく多くの人が、「ああ、それ、知ってる!」と言うほどに、有名な古典です。

小中学校の国語の教科書にも載っていますし、冒頭の文章を暗記させられた記憶もあります。『源氏物語』の冒頭、「いずれのおおんときにか……」と、いっしょでしょう。

あるいは社会科の歴史の教科書に、清少納言は『枕草子』、紫式部は『源氏物語』という具合にセットで、平安時代の文学の代表として学んできました。

清少納言と紫式部は、ほぼ同時代に生きた女性です。

清少納言は西暦966年の生まれで、1025年没とされています。対するに紫式部は、973年生まれとされていますから、清少納言のほうが7歳年上です。職業というか、職場も宮廷の女房ということで、同じような地位や立場です。

紫式部と清少納言は知り合い?

では、「ふたりは知り合い?」と思うかもしれませんが、直接言葉を交わしたとか、手紙のやりとりをしたことはないようです。というのも、宮廷につとめていた期間が、微妙にちがっているからです。

清少納言が宮廷に出仕したのは、西暦993年から1000年で、紫式部は1005年から出仕したと言われていますので、そこには6年の差があります。

しかも紫式部の初出仕のときにはすでに、清少納言は超有名な作家になっていたのです(『源氏物語』も、紫式部の出仕前から一部で読まれていた、との説もありますが)。

一条天皇の寵愛を受けた定子(ていし)皇后は、才色兼備の女性ばかりをあつめて、「定子サロン」をつくりあげていました。

どんな集団も、たとえば1つの会社やお店でも、リーダーがしっかりしていれば、社員や店員も皆、きちんとしています。1人の応対ぶりがよければ、他の者の態度もよく、「それも、リーダーしだい」というわけでしょう。

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