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紫式部がつづる女流作家「清少納言」への"対抗心" ほぼ同時代に生き、同じような地位・立場だった

東洋経済オンライン / 2024年2月11日 14時0分

「定子サロン」のリーダーはもちろん、定子皇后ですが、現場で一同を仕切る役、とくに余興や即興、オマツリ事の中心には、いつも必ず清少納言がいたようです。

一条帝は、そんなサロンの雰囲気を、とても気に入っていたと言います。

清少納言は歌人であり、随筆家(エッセイスト)です。紫式部は物語作家ですから、文学的なジャンルは異なります。

当時、物語の評価はあまり高くありませんでした。女・子どもが読むもので、大人の男性からは鼻であしらわれるような絵空事としか思われていなかったのです。

平安時代の主流は、日記文学でした。紀貫之の『土佐日記』、藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)の『蜻蛉(かげろう)日記』などがよく知られています。紫式部も「物語」だけではなく、「日記」を書き残しています。

その『紫式部日記』(角川ソフィア文庫/山本淳子編訳、以下同じ)のなかに、こんな記述があります。

「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍(はべ)りける人。さばかりさかしだち、真名(まな)書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり」(原文)

「それにつけても清少納言ときたら、得意顔でとんでもない人だったようでございますね。あそこまで利巧ぶって漢字を書き散らしていますけれど、その学識の程度ときたら、よく見ればまだまだ足りない点だらけです」(山本訳)

寒々しくて風流とはほど遠い

さらに紫式部は、こうまで、したためています。

「かく、人に異ならむと思ひ好める人は、必ず見劣りし、行末うたてのみ侍るは。艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよく侍らむ」(原文)

「彼女(清少納言)のように、人との違い、つまり個性ばかりに奔(はし)りたがる人は、やがて必ず見劣りし、行く末はただ『変』というだけになってしまうものです。例えば風流という点ですと、それを気取り切った人は、人と違っていようとするあまり、寒々しくて風流とはほど遠いような折にでも「ああ」と感動し「素敵」とときめく事を見逃さず拾い集めます。でもそうこうするうち自然と現実とのギャップが広がって、傍目(はため)からは『そんなはずはない』『上っ面だけの嘘』と見えるものになるでしょう。その『上っ面だけの嘘』になってしまった人の成れの果ては、どうしたらよいものでございましょう」(山本訳)

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