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紫式部がつづる女流作家「清少納言」への"対抗心" ほぼ同時代に生き、同じような地位・立場だった

東洋経済オンライン / 2024年2月11日 14時0分

紫式部は筆鋒(ひっぽう)するどく、清少納言を批判しています。どちらかといえば、感情的ともとれる書きぶりです。

この日記が書かれたのは寛弘(かんこう)7(1010)年で、定子皇后が亡くなったのは長保(ちょうほう)2(1000)年ですから、清少納言が宮廷を去ってから、だいぶ時間が経っています。

清少納言の晩年はどうだったか

鎌倉初期の説話集『古事談(こじだん)』によれば、清少納言は晩年にはだいぶ零落(れいらく)したようで、同書には、その様子が伝えられています。

それにしても、紫式部の清少納言批判は激越です。

清少納言の「学識の無さ」を云々していることに関して、丸山裕美子氏はその著『清少納言と紫式部』(山川出版社)のなかで、こう書いています。

「紫式部は、父仕込みの漢籍の素養をもっていながら、(『一といふ文字だに書きわたしはべらず』)という態度をとっていたほどだから(『紫式部日記』)、清少納言の漢籍知識の浅薄さが我慢できなかったのであろう」

もしかしたら、紫式部は新たな「彰子(しょうし)サロン」での自分と、清少納言とを(無意識のうちに)比べていたのかもしれません。

当初は同じ女房仲間から、陰気で地味と疎(うと)んじられていた紫式部。それが、みずから努力に努力を重ねて、見直されていく。最後はけっこう社交的にもなって、彰子中宮からの信望も篤(あつ)くなり、いちばんに目をかけられるようになるのです。

それだけに、よけいに「定子サロン」の人気者、清少納言には大きな対抗心があったのかもしれません。

岳 真也:作家

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