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「孫を天皇にしたい」道長の父が抱く"強烈な執念" 兼家は自宅に引きこもり不遇の時代も過ごす

東洋経済オンライン / 2024年2月11日 11時30分

段田安則さん演じる藤原兼家(写真:NHK公式サイトより引用)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第6回は、藤原道長の父・兼家が、「孫を天皇にさせたい」と大きな野心を抱いた背景について解説する。

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革新的な花山天皇を疎んじた兼家

「何とかして花山天皇を引きずり降ろさなければならない」

【写真】大河ドラマで吉田羊さん演じる、兼家の次女・詮子(写真真ん中)

永観2(984)年に即位した花山天皇の治世がスタートすると、藤原道長の父・兼家はそんな決意を新たにしたことだろう。色好みで奇行が多かったとされる花山天皇だが、即位後は革新的な政策に着手し始めた。

贅沢を禁じ、銅銭の流通を促進させて、適正な続きを得ていない荘園を整理する――。花山天皇は即位するや否や、それらの法令を次々に発出。側近として、天皇の外叔父にあたる藤原義懐(よしちか)を取り立てた(前回記事:式部の父を出世させた「花山天皇」その悲しい顛末 参照)。

関白の藤原頼忠は、ほぼ蚊帳の外に置かれたといってよい。右大臣の藤原兼家や左大臣の源雅信も面白くはなかっただろう。

もっとも兼家からすれば、花山天皇がどんな政治を行おうが、早々に退場してもらうつもりだったに違いない。さまざまな政略を練った兼家だが、目的はたった一つである。

「自分の孫を天皇に即位させる」

兼家の次女・詮子は天元元(978)年8月に円融天皇の女御として入内。2年後の天元3(980)年に男の子を出産する。

このときに、兼家の野心は燃え上がったといってよいだろう。兼家がそれほど出世欲に駆られたのは、その生い立ちと深く関係している。

天皇のそばで権勢を振るった藤原氏

平安時代は、延暦13(794)年に、桓武天皇が平安京に都を移してから、鎌倉幕府が成立するまでの約390年間のことをいう。

平安時代の礎を築いた第50代の桓武天皇のあと、息子の平城天皇が第51代天皇を、さらに平城天皇の弟にあたる嵯峨天皇が第52代天皇に即位する。

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