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「孫を天皇にしたい」道長の父が抱く"強烈な執念" 兼家は自宅に引きこもり不遇の時代も過ごす

東洋経済オンライン / 2024年2月11日 11時30分

そんな父を見ているからこそ、兼家は是が非でも、自分の目が黒いうちに、娘が産んだ子を天皇にしたいと考えたのだろう。

父の師輔が51歳で病死したあと、長男の伊尹が天禄元(970)年に右大臣に就任。その後、円融天皇の摂政となると、翌年には、正二位・太政大臣にまで上っている。政権の座に就いたという意味では、父・師輔の無念を晴らしたことになるが、伊尹は48歳でこの世を去る。

急死した長男の後を継いで関白となったのが、次男の兼通である。円融天皇との関係が良好だったことが、功を奏したらしい。後継者争いに敗れた3男の兼家は、兼通によって干されていく。

兼通から警戒されたのも無理はない。その頃、兼家は長女の超子が冷泉上皇との間に、皇子の居貞を産んでいた。兼家が外戚として存在感を発揮すれば、厄介である。

大納言から治部卿に降格させられた兼家。空しく自宅に引きこもり、不遇の時代を過ごすことになる。

しかし、風向きが変わってきた。

貞元2(977)年に兼通は病で死去。天元元(978)年6月から再び出仕した兼家は、8月には次女の詮子を、円融天皇に入内させている。10月には右大臣に任ぜられた。さらに、天元3(980)年には、詮子が円融天皇との間に、男の子の懐仁を出産したのだから、追い風もここに極まれり、といってもよいだろう

ついに孫の一条天皇が即位

永観2(984)年に円融天皇が退位すると、東宮だった師貞親王が花山天皇として即位。それと同時に、懐仁親王が皇太子となった。あとは、花山天皇にさえ退いてもらえれば、ついに孫を天皇に即位させることができる。

花山天皇が突然の出家によって退位したのは、兼家の3男、道兼が促したからだとされている。道兼は、愛する女御・藤原忯子を亡くして悲しみに暮れる花山天皇にアプローチして「ともに出家しましょう」と説得。いざ花山天皇が剃髪すると、自分だけ出家せずに寺から抜け出した。

当然、そこには兼家の思惑があったに違いないが、長男には汚れ役はさせられないと考えたのだろうか。兼家は孫の懐仁親王が7歳で、一条天皇として即位するのを見届けて、4年後に死去。その後は、長男の道隆があとをついでいる。

深謀遠慮を巡らして、一族の繁栄へと導いた兼家。だが、そんな兼家をもってさえも、5男の道長が藤原家で最大の栄華を誇るとは、予想しなかったことだろう。
 

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
笠原英彦『歴代天皇総覧 増補版 皇位はどう継承されたか』 (中公新書)
今井源衝『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』 (角川ソフィア文庫)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
鈴木敏弘「摂関政治成立期の国家政策 : 花山天皇期の政権構造」(法政史学 50号)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

真山 知幸:著述家

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