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「孫を天皇にしたい」道長の父が抱く"強烈な執念" 兼家は自宅に引きこもり不遇の時代も過ごす

東洋経済オンライン / 2024年2月11日 11時30分

この桓武天皇・平城天皇・嵯峨天皇の三帝に仕えたのが、藤原内麻呂(ふじわら・うちまろ)である。つねに天皇に近侍した内麻呂は、多くの子孫にも恵まれた。藤原氏が政務を牛耳る政治的な基盤を築くことになる。

内麻呂の次男・藤原冬嗣(ふゆつぐ)が、嵯峨天皇の側近として実権を掌握。その冬嗣の長男・藤原長良(ながよし)は、弟の良房や良相に出世で後れをとるものの、子女に恵まれた。長良の没後、娘の高子は清和天皇の女御となって、貞観10 (868)年にのちの陽成天皇を出産。長良は死後に天皇の外祖父となり、太政大臣の位が送られている。

そんな長良の3男が藤原基経だ。基経は、叔父・藤原良房の養子に入ると、養父を継いで、氏長者(うじちょうじゃ)となる。つまり、藤原氏の代表として、政権の首座に就くこととなった。

基経は第56代の清和天皇、第57代の陽成天皇の2代にわたって、摂政を務めている。だが、陽成天皇がどうにも乱暴者で、手がつけられなかったらしい。宮中で馬を乗り回すわ、小動物にいたずらをして殺生するわで、その暴虐ぶりに周囲は散々振り回された。

陽成天皇は病を理由に退位するが、そこには基経の働きかけがあったとみられている。その後は、光孝天皇が第58代として即位。光孝天皇を擁立した基経は、実質的に関白となり、政務を独占することとなった。

その後は、基経の4男にあたる藤原忠平が、第61代の朱雀天皇と第62代の村上天皇に摂政・関白として仕えている。

忠平の死後は、長男にあたる実頼が左大臣をつとめた。次男の師輔は右大臣にとどまるが、師輔の娘・安子が村上天皇の皇后となり、憲平を産む。

憲平は第2皇子だったにもかかわらず、実頼と師輔の兄弟の力によって、生後わずか2カ月で皇太子となる。この憲平親王が康保4(967)年に、第63代の冷泉天皇として即位した。

そんな冷泉天皇のもとで頭角を現したのが、師輔の3男で、のちに道長の父となる、藤原兼家であった。

兄との後継者争いに敗れた兼家

「一苦しき二」

兼家の父、師輔のことを『栄花物語』ではそんな言葉で評している。

「一」である兄の実頼が苦しくなるほど、「二」の師輔は優れていた。
それにもかかわらず、師輔は右大臣のまま、政権の座に就くことなく、天徳4(960)年に亡くなってしまう。娘が産んだ憲平親王が冷泉天皇として即位したのが康保4(967)年だから、外祖父として人生の幕を閉じることはできなかった。

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