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信玄の「赤備え」無敵伝説は"イメージ戦術"だった 大久保利通も「鳥羽・伏見の戦い」で用いた手法

東洋経済オンライン / 2024年2月12日 18時0分

戦況がひっくり返ったのは、翌日の戦闘です。

薩摩軍の陣地に「錦の御旗」が掲げられたのです。旧幕府軍の兵は、みな青ざめます。なぜなら、この瞬間から薩摩軍は天皇の勅命を受けた官軍となり、旧幕府軍は天皇に弓を引く賊軍、“朝敵”となったからです。戦意を喪失した旧幕府軍はじりじりと後退し、官軍に次々に撃破されていきました。

大久保のイメージ戦略が完全にハマったわけですが、実は当時の人は誰も本物の「錦の御旗」を見たことがありませんでした。歴史上では、例えば鎌倉時代の承久の乱(1221年・承久3年)において、後鳥羽上皇が「錦の御旗」を10人の武将に与えています。

しかし、当時に使われた錦の御旗が、そのまま幕末まで残っていたわけはありません。誰も御旗がどんなものなのか、皆目知らなかったのです。

大久保は長州藩士の品川弥次郎とともに、文献資料をもとに、それらしく「錦の御旗」を制作しました。幕臣たちは武士の教養として、『吾妻鏡』や『太平記』を読んでおり、「錦の御旗」のもつ意味がわかっていたため、「あれが錦の御旗か」と恐れおののいたわけです。おそらく大久保の、想像以上の効果をあげたことでしょう。

戦う前に勝つ方法として有効なのが、事前に敵の有力者を味方に引き入れることです。これを「調略」といいます。もちろん相手は、滅多なことでは誘いに応じません。そんなことは百も承知で、武田信玄や毛利元就は誘うわけです。

手紙を出す。贈り物をする。ときには、「あれだけの武勇の者が当家にもほしい」と相手方の耳に入るような形で、褒めまくります。自分があの武将を誘っていることがわかるように、わざと相手方に情報を流すのです。それでも、立派な人物であればあるほどに、当事者の気持ちが変わることはないでしょう。

しかし、この戦術が恐ろしいのは、何度もくり返すことによって、敵の周囲の人間の気持ちが揺さぶられ、疑心暗鬼が生まれることです。

どんな組織も、完全な一枚岩はありえません。そのうち、「脈がないのに、何度も誘うのはおかしい。もしかしたら……」と、敵の同僚の中に、疑念を抱く者が出てくるのです。いくら裏切るつもりなどない、といったところで、疑念が疑念を呼び、目指す人物はその家には居づらくなることでしょう。

巧妙に噂を流して敵の戦力を削ぐ

「調略」は戦国時代、ときに合戦で勝利する以上の成果をあげることがありました。豊臣秀吉が本能寺の変のあと、領国獲得・拡大に躍起となっていた頃、この先、天下取りの障壁となるであろう織田信長の次男・信雄の勢力を、なんとか削ぎたい、と考えました。

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