1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. ビジネス

信玄の「赤備え」無敵伝説は"イメージ戦術"だった 大久保利通も「鳥羽・伏見の戦い」で用いた手法

東洋経済オンライン / 2024年2月12日 18時0分

そこで秀吉は、信雄の3人の優秀な家老に対して、「調略」=罠を仕掛けたのです。秀吉は彼らに対して、「こちらに寝返ればあなたたちを厚遇する」と誘い、その誘った事実をそのまま、信雄に伝えたのです。3家老は最後まで秀吉の誘いには応じませんでしたが、裏切られた、と誤解した信雄によって成敗されてしまいました。

現代においてもこうした噂を意図的に流すこと(流されること)は、けっして珍しいことではないでしょう。彼は転職するらしい、といううわさが耳に入れば、「あいつがわが社を裏切るはずがない」と思っていても、最悪のシナリオが頭の片隅から離れなくなってしまいます。

そうなると、もはや重要な案件を彼に任せることはできません。情報漏洩されたら困るからですが、彼を使えないとなれば、実質的な戦力ダウンは免れないこととなります。

先の3家老は誘いを断りましたが、徳川家康の腹心だった石川数正(酒井忠次に次ぐ重臣)は、秀吉の誘いに乗ったといわれています。数正は家康が少年時代から仕えており、家康の信頼も篤い武将でした。織田信長と同盟するように勧めたのも、数正でした。

いずれ家康と雌雄を決するときが来る、と考えていた羽柴秀吉は、数正に早くから目を付けていました。家康に会いに行った際はもちろん、別途に数正へ使者を出し、ことあるごとに「数正はいい」と褒めそやすのです。

そんな様子を見た徳川家の家臣たちは、「数正は秀吉に誘われている。いずれ当家を裏切るのではないか」と次第に疑うようになっていったのです。

織田信雄と徳川家康を相手に、羽柴秀吉が戦った小牧・長久手の戦いの後、秀吉は石川数正を通じて、家康の次男・於義伊(のちの結城秀康)を人質に出すように迫ります。これは家康に臣下の礼を取らせるための、重要な布石でした。

しかし、家康の家臣団は小牧・長久手の戦いで勝ったのは自分たちであり、なぜ、あんな成り上がり者に、大切な於義伊さまを渡さなければならないのか、納得しません。

しかし秀吉の実力はすでに20カ国に及び、それに比べて家康は5カ国しかもっていません。秀吉が本気で戦を挑んでくれば、徳川家は間違いなく滅んでしまうでしょう。

それがわかる外交眼を持っていたのが、数正でした。

人もお金も不要! コスパのよい戦術

於義伊を人質ではなく、秀吉の養子に入れるのだといって、ようやく三河の武士団を納得させたのですが、秀吉はそれでも上洛して挨拶をしない家康に業を煮やし、ついには月日を切って、開戦する旨を数正に伝えました。秀吉はすぐさま、10万の大軍を動員する準備に入ります。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください