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「比叡山の焼き討ち」で家臣に示した信長の"哲学" 家臣はなぜ僧兵らを恐れず戦うことができたか

東洋経済オンライン / 2024年2月19日 17時0分

メッケルは言います。「よき操典で訓練された兵が、確固たる戦術にのっとって、全軍統一した意志をもって戦うなら、勝利は間違いない」。

「戦術」の力を最大化する、チーム内コミュニケーションについて、具体例とともに紹介していきます。

戦う理由をていねいに説明する

令和の時代に、「黙って俺についてこい」というタイプの上司は、もうほとんどいなくなったかと思いますが、日本史を全体的に見渡してみても、昔から多かった率先垂範型のリーダーは、その実、よほど卓越した能力がなければ使い物にはならず、優れたリーダーは部下とのコミュニケーションを上手に図って、成功に導いていることがわかります。

織田信長には、無口のイメージがあるかもしれません。実際、部下からいろいろ報告を受けても、「であるか」のひと言で済ませてしまった逸話は少なくありません。

しかし、肝心なことは何度も部下と話し、徹底して納得させるコミュニケーションを、信長は密にとっていました。ですから家臣たちは、傍目に無茶、無謀とも思える主君の合戦に、不満を言わず参加したのでした。

象徴的な例が、1571年(元亀2年)9月に織田軍が近江国(現・滋賀県)にある比叡山延暦寺を焼き討ちにした際のことです。このとき信長は、僧侶や学僧のみならず女性、子どもまで皆殺しにした、といわれています。

当時、僧兵を従えた寺院勢力に、多くの武将が手を焼いていました。それでも直接手を出すことがはばかられたのは、中世を生きる人間として、仏罰が恐ろしかったからです。

ではなぜ、織田の家臣たちは平気で、僧兵たちと戦うことができたのでしょうか? 仏罰より信長が恐ろしかったから? もちろん違います。

信長が家臣らに対して、「なぜ比叡山を焼き討ちにするのか」をていねいに説明していたからでした。

インテリの光秀も納得した

信長の家臣が延暦寺を焼き討ちできたのは、裏を返せば仏罰を恐れていなかったからです。中世を生きる者にとって、神仏に対する畏れは、21世紀を生きる我々には想像できないほど大きな、日常生活を縛るものでした。

それでも織田軍が毅然として征伐をやれたのは、信長が「彼らを殺しても、仏罰は当たらない」という哲学を、家臣たちに浸透させていたからでした。

「私はやがて、泰平の世をもたらす。それを天下の人々は望んでいる。だが、僧兵たちが泰平への道を邪魔している。いまや仏教は堕落し切っている。彼らは袈裟を着ていても経文すら読まない。日々酒を食らって、女性を平気で出入りさせ、破戒の限りを尽くしている。あんな奴らは坊主ではないし、叡山は学問の府でもない。延暦寺の高僧たちにも、こんな状況を野放しにしてきた責任がある。むしろ仏罰を受けるのは、彼らのほうだ。だから、私は攻めるのだ」

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