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「道長が対抗心むき出し」藤原公任の溢れ出す才能 道長の父が我が子と才能比べるほど優秀だった

東洋経済オンライン / 2024年2月25日 7時50分

比べられるほうもたまったものではないが、父からの辛辣な言葉に、道隆と道兼はただ、うつむくしかなかった。ただ1人だけ牙をむいたのが、年少の道長である。

「影を踏むことはできないでしょうが、その面を踏んでやりましょう」

道長は公任と同い年ということもあり、対抗意識を燃やしたのだろう。負けん気が強い道長らしい逸話として『大鏡』につづられている。

だが、このときに「顔面を踏んづけてやる!」と意気込んだ相手である公任に、道長は支えられることになるのだから、人生というものはわからないものだ。

あれだけ突出していた公任が、道長に抜かれることになったのは、なぜか。花山天皇がいきなり出家してしまい、一条天皇が即位したことがきっかけである。

のちに「寛和の変」と呼ばれる政変をしかけたのは、右大臣の兼家だ。最愛の女御だった藤原忯子が急死して、失意のどん底にいる花山天皇の様子をみて、兼家は「またとない好機だ」と考えたらしい。

兼家の4男・道兼が「ともに出家しましょう」と誘うと、弱っている花山天皇はそれに同意。寺で剃髪するのを見届けてから、道兼は寺からフェイドアウトしている。哀れな花山天皇は、騙されて出家させられるかたちとなった。

その後、兼家の孫にあたる皇太子の懐仁親王が、一条天皇として即位。外祖父となった兼家は摂政になると、右大臣を辞任。あえて大臣の序列から離脱することで、 摂政として単独で実権を握ることになった。 長男の藤原道隆を始めに、自分の子どもたちを露骨に引き上げていく。

花山天皇に代わって一条天皇が即位したことで、藤原頼忠は関白を辞任。また、皇太后の地位には、兼家の娘で一条天皇の生母となる藤原詮子が就いている。

そんな兼家の台頭によって、永延元(987)年には、道長は一気に従三位まで出世。その一方で、父も姉も失脚した公任は、道長に追い抜かれることになる。

その後、摂政として権勢を振るった兼家が死去すると、長男の藤原道隆が後を継いで、関白となるも病死。次に、4男の道兼が関白となるが、たった数日で病死したため、いよいよ5男の道長の時代がやってくることになる。

出世という面では、すっかり停滞した公任だったが、道長と交流を深めていく。道長邸の改築を伴う祝宴に参加したり、一緒に紅葉を観にいったりしている。

だが、その後、1歳年下の親しい友人だった藤原斉信に出世で抜かれると、嫌気がさしてしまったようだ。一時期は参内を辞めてしまっている。

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