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「道長が対抗心むき出し」藤原公任の溢れ出す才能 道長の父が我が子と才能比べるほど優秀だった

東洋経済オンライン / 2024年2月25日 7時50分

それでも寛弘2(1005)年、官職に復帰した公任。寛弘6(1009)年には、権大納言まで昇進することとなった。

芸術分野でも才能を発揮

あれだけ有望視されながらも、出世という面では後れをとった公任だったが、歌の世界では存分に活躍している。

自身で優れた作品を残しただけではなく、『和漢朗詠集』『拾遺抄』『金玉集』『深窓秘抄』など多くの歌集を編さん。なかでも『拾遺抄』は、のちの『拾遺和歌集』の基になったと考えられており、公任が歌壇で大きな影響力を持つきっかけとなった。

和歌だけではない。かつて藤原兼家が多才な若き公任をみて、我が子に失望しただけあり、さまざまな芸術分野での才能も健在だった。こんなエピソードが『大鏡』に残っている。

道長が大堰川で、船遊びをしたときのことだ。川には3つの船が用意されており、「漢詩が得意な人が乗る船」「管弦が得意な人が乗る船」「和歌が得意な人が乗る船」に分かれて、乗船することになった。

もし今そんなイベントが催されたら「どの船にも乗れない……」という人ばかりになりそうだが、当時は貴族のたしなみとして、いずれも重要視されていた。

おのおの自分の得意分野に合わせて、参加者たちが船に分かれて乗り込んでいくと、公任が現れた。道長は、公任の姿を見て「どの船にお乗りになるのだろうか」(原文は「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき」)と言ったのだという。

つまり、どの船にも乗ってもおかしくないほど、いずれの分野でも優れていたということだ。

公任は「和歌の船に乗りましょう」(「和歌の船に乗りはべらむ」)と言ってこんな和歌を詠んでいる。

「小倉山 あらしの風の 寒ければ 紅葉の錦 着ぬ人ぞなき」

小倉山と嵐山から吹きおろす強い風が寒いので、紅葉の落ち葉が人々に降り注いで、誰もが美しい錦の衣を着飾っているようだよ――。

「嵐(あらし)」が掛詞となり、「嵐山」の「嵐」と激しく吹く風の「嵐」が掛けられている。これには周囲も「さすが公任」と感心したが、本人は「漢詩の船に乗ればよかったなあ」(「作文のにぞ乗るべかりける」)と後悔したという。

「それでこのぐらいの漢詩を作ったならば、もっと名が上がっただろうに。残念だったことだなあ」

(さてかばかりの詩を作りたらましかば、名の上がらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな)

当時、男性の教養として重要視された漢詩は、和歌よりも格上とされていた。マルチな才能を持つ公任ならではのハイレベルな葛藤といえるだろう。

道長政権を支えた「四納言」

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