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SNS多用する人に伝えたい、相手を傷つけない技術 文字によるコミュニケーションが難しい理由

東洋経済オンライン / 2024年3月3日 10時30分

原則として、ツイッターで議論はしてはならない(もしどうしても議論に参加しなければならないと感じた場合でも、やりとりは2往復で止めておこう。このメディアは、繊細な議論をすることには向いていないのだ。

必要に応じて、この〔やりとりは2回までにしているというあなたの〕原則を説明したり、メールその他の私信で議論を続けることを相手に提案するために、3つ目の返事を加えてもよい)。

ツイッター〔で発言すること〕は、ステージ上で大観衆に向けて一気に演説をぶつようなものだと考えればよい。劇場の最後部座席から野次を飛ばしてくるような客とは、議論をしようなどと、普通は思わないだろう。

フェイスブックはツイッターに比べれば個人的な人間関係をもとに構成されている。なのでフェイスブックは会ったことのある人ならだれでも顔をだす可能性があるファミリー・パーティのようなものに近い。

そういう状況であなたならどういうふうに振る舞うだろうか。ある特定の性的嗜好の道徳的是非について、あなたが大学からの旧友と白熱した議論を交わし罵声を投げつけあっているところを、あなたのおばあちゃんや職場の同僚が見たいと思うことはないだろう。

それぞれのプラットフォームには、特定の種類の観客を引き寄せ、満足させるような特定のインフラがそれぞれ備わっている。もし我慢ができず、どうしても〔そこで議論したいという〕気持ちを発散させたいのであれば、せめてどういう観客がいるのかは知っておくべきだ。

投稿する人は批判を受けたいわけではない

ソーシャルメディアでの会話について最後に2点。第1の点は、人が何かをソーシャルメディアに投稿するときは、特に断りがない限り、ほとんどの場合その人は自分の考えが訂正されることを求めているわけではないということだ。

たいていの場合、そういう人の目的は自分の意見を確証することにある。シェアした内容に憤慨している人は、他の人にも同じように憤慨してほしいのである。

わざわざオンライン上に投稿しようとするくらい自分の見解に自信を持っている人は、たいていの場合、その考えを他人に伝えようとしているのであって、批判を受けたがっているわけではない(つまり、そういう場合は伝令になっているというわけだ)。

同じことは読んでいるあなたの側にもいえる。フェイスブックで見た投稿に納得できないとき、あなたは認知的不協和を感じるということだ。認知的不協和とは、自分の世界観に合致しない情報が入ってきたときに感じる不快な感情を指す言葉である。

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