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父倒れ一人になったタイ出身・女子高生の旅立ち 大阪ミナミ「外国ルーツの少女」の成長【後編】

東洋経済オンライン / 2024年3月23日 19時0分

第1志望の看護専門学校の推薦入試は、早くも秋に始まった。

面接試験の直後は「全然うまく答えられなかった」と落ち込んでいたメイだが、小論文と面接の1次試験、そして最終の2次試験を無事に終えた。

結果発表の日、メイから電話があった。

第一声、「合格した!」と報告があり、妻と2人で喜び合った。

合格した専門学校には寮や奨学金があり、4年学んで卒業した後、しばらくは系列の病院で看護師として働くことになる。うまくいけばメイは20代半ばで助産師学校に入り、夢をかなえることができる。

受験勉強から解放されたメイは、ボランティアとしてMinamiこども教室へ顔を出すようになった。小学生の隣に座って宿題を教え、子どもの自宅への見送りも担った。

その姿を、スタッフたちは娘や孫を愛でるように見守った。教室出身の子どもがボランティアとして戻ってくるのは初めてのことだった。

学習支援をする側にまわったメイは「今まで教えてもらうことに慣れきってたけど、わかりやすく教えるのって難しいねんなあ。自分の教えてることが合ってるんか不安になったら、その子も不安にしてしまうし」と言う。

特に、ある女の子の姿が心に残ったという。教室でも口数が少なく、物静かな小学6年の女の子だ。

「すごい黙々と丁寧に宿題をやる子なんやけど、どうしても要領が悪いねん。それが小学生のころの自分を見てるみたいで。もっと力を抜いてもいいのになあって思いながら教えてた」

そうやって自らと重ねながら、気持ちをわかろうとしてくれる先輩がいることは、その女の子にとっても、良い出会いになったはずだ。

「やっぱり居場所かな。心の居場所」

メイは専門学校の入学と同時に、学校の寮へ入ることになった。6歳で移り住んで以来初めて、島之内を出て暮らすことになったのだ。

島之内を「ほわほわしてて、居心地がいい」と評していたメイだ。名残は尽きないようだった。

私は1つの区切りだと思い、メイがうちへ夕食に来た日、少し改まったインタビューをさせてもらった。居間の座卓に向き合い、レコーダーを回す。

メイは少し照れつつ、一つひとつ言葉を選びながら、父親が倒れてからの2年間をふり返ってくれた。

「私がしんどい時に周りにいろんな大人がおってくれて、それぞれの場面で助けてくれた。勉強のことはタナカ先生、生活のことはウカイ先生、役所とかややこしいことはキム先生、いろんな愚痴はタローの家で聞いてもらった。

そうやって、いろんな大人がおってくれたから、ひとりで悩まずに済んだ。それがいいな、って。ひとりの人だけに頼りきるんじゃなくて、いっぱいいてくれることで、一人ひとりに少しずつ、あんまり遠慮せずに相談ができるやん。

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