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あわや事故も、大正・昭和天皇の鉄道「ご受難」史 勾配で電車逆走し衝突寸前に、脱線にも遭遇

東洋経済オンライン / 2024年4月27日 6時30分

大正天皇が人車に乗られた記録は、残念ながら見つけられなかったが、昭和天皇(裕仁親王)が、前述の小田原馬車鉄道が電化された小田原電気鉄道(国府津―小田原―箱根湯本間)に乗車され、その際、事故寸前の危ない場面に遭遇したという記録がある。

「明治小田原町誌 下」(小田原市立図書館編)に掲載されている当時の小田原町助役の日記によれば、1904年7月8日、箱根の宮ノ下御用邸(現・富士屋ホテル別館「菊華荘」)へ避暑に向かわれる裕仁親王と雍仁親王(昭和天皇の弟。後の秩父宮殿下)、および供奉員が乗車した電車が、定刻より数分遅れて国府津駅を出発し、途中まで進んだ後、猛スピードで逆走したというのである(以下、筆者により現代仮名使い等に変換して引用)。

十二時に国府津を出発し、湯本村前田橋よりおよそ一町半(164m)の距離までに至りしに、同鉄道線路は屈曲の所には常に油を引き円滑ならしめしに、その油の自然に軌道に浸滲(しんさん)し、その為に僅かに車輪の後方に滑るや否や惰力をもって背進を始めたれば、早速に車の歯止をなしたれば車の運転は中止せしも、惰力は益々勢力を増加し非常の速力をもって逆進なしたれば、或いは脱線をせざるやと気遣いたるも如何ともなすことあたわず進退きわまりしに……。

現場にいた関係者は生きた心地がしなかったに違いない。

さらに悪いことに、ここに後続列車がやってくる。

小田原を発し来りし普通客車は後方より進行し来りたれば、これと尖突を来すは必然に、各々帽子を振り声を揚げ狂気のごとく種々の動作をもって退却をなさしめんとするも、距離は益々短縮し安き心はなかりしに、漸(ようや)く後車も気付き退却を始め、大窪村御塔を西に去る二丁(218m)ばかりの鉄道線の複線に至り、地勢は少し高くなりたるため惰力を滅し停車し、尖突の災害を免れたりしも、最も短距離は両車の間、ついに四尺(1.2m)程となりし時は尖突したりと思われたり(後略)

こうして間一髪、衝突事故を免れ、その後13時40分に電車の進行を再開し、14時に湯本に到着したとある。

当時は、我が国に鉄道が導入されてから30年、初の電気鉄道(京都市電)が営業運転を開始してから9年という、鉄道という乗り物がまだまだ未熟な時代であった。何事もなくてよかったが、これがもし事故になっていたならば、どうなっただろうか。

実際に脱線事故も

実は、裕仁親王ご乗車の車両が脱線したことがある。『昭和天皇実録』の1907年1月23日の項に、裕仁親王が沼津御用邸に滞在中、三嶋大社を参拝した帰路、駿豆電気鉄道(後の伊豆箱根鉄道軌道線・三島―沼津間。1963年廃止)に乗車された際、「黄瀬川を通過して間もなく御乗車の電車が脱線するも、程なく復旧し、午後四時御帰邸になる」と記されている。幸いにも人身事故に至らなかったこともあるだろうが、非常にあっさりと記述されている。

ところが、天皇の御召列車が脱線したとなると一大事であった。1911年11月10日の昼過ぎ、福岡県久留米市周辺で行われる陸軍大演習へ向かう明治天皇ご一行が、下関より御召艇で門司に到着された。ところが、門司駅から乗車される予定の列車が、駅構内での入換作業中に脱線。復旧までの間、明治天皇がおよそ1時間にわたって粗末な「鉄道桟橋元旅客待合所」(11月11日付東京朝日新聞)で待つこととなった。この事態を受け、翌晩、1人の門司駅員(構内主任)が自殺している。

今もそうだろうが、当時の鉄道員たちが、いかに大きなプレッシャーと責任の下、御召列車を運行していたのかをうかがい知ることができる事件である。

森川 天喜:旅行・鉄道ジャーナリスト

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