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「最近の若者は…」過剰に一般化する人の深刻盲点 都合よく情報を拾ってしまう「認知の偏り」の罠

東洋経済オンライン / 2024年5月17日 17時0分

彼のイメージする「オレンジ色のメガネ」はきっと、つるが太く、全体がオレンジ色のものだったのではないでしょうか(かけるのに勇気がいりそうなメガネですが)。

まったく違うものを想像していたために、目の前にあるのに見えていなかった。認知の力はときに、そうした形で働くものなのです。

皆さんも、似たような経験はないでしょうか?

例えば、新聞広告で見た本を、書店で探しているとしましょう。置いてありそうなコーナーに行ってざっと見たけれども、見つからない。

「もしかして、この本屋さんには置いていないのかも?」

大きめの書店ならば店頭に「在庫検索」の端末があることも多いですから、調べてみると、確かにさっきまで見ていたコーナーに「在庫あり」と表示されている。

コーナーに戻って見てみるけれども、やっぱりない。どうにも見つけられず、店員さんに聞いてみたら、なんと、自分の目の前の棚にたくさん積んであって、「どうして気づかなかったんだろう?」。

おそらく、近くの別の本に気を取られていたとか、カバーの色が思っていたものと違ったとか、様々な理由があるのでしょう。

視界には確実に入っているのに、見えていない、ということは、珍しいことではないのです。

このような人間の性質に気づければ、書類に一文、重要な断り書きがあったときに、「説明しなくても、書いてあるんだから大丈夫だろう」などという思考に「待った!」をかけることができるかもしれません。

書いてあった、その文章を見ていたからといって、それを本当に「読んで理解した」かどうかは、わからない。字面を「見て(視界に入れて)」いても、「読んで」いないこともある。誰が見ても明らかな注意書きがあったとしても、それを本当に「読んだ(つまり言語情報としてしっかり処理した)」かどうかは、わからない。私たちの視点は、つねに偏っているのです。

「認識」もまんべんなく持つことは難しい

この、「視野に入っているのに、見ていない」「見ているものに偏りがある」のは、物理的に何か物事を見ているときに限りません。聞くときにも起こります。

よくあるのが、夫婦の会話で、妻が夫に、「話、ちゃんと聞いてるの?」という場面ですね。

重要な情報を伝えられることがあらかじめわかっていて、注意を払って聞いていたとしても、聞いたことすべてを正しく捉え、覚えることはできません。だから伝言ゲームのように「聞いたことを次の人へ伝える」だけのことが面白い遊びになったりします。

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