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道長支えた「4人の公卿」道長と最も親しいある男 源俊賢・藤原公任・藤原斉信・藤原行成の半生

東洋経済オンライン / 2024年5月19日 7時50分

「貪欲、謀略その聞こえ高き人」(貪欲謀略其聞共高之人也)

権力者におもねることを嫌った実資らしい手厳しさだが、どうも道長の長女・彰子が一条天皇の女御となり入内するときに、一悶着あったらしい。

道長は娘の入内に際して、和歌を集めた高さ4尺の屏風を持たせようと考えた。藤原公任、藤原高遠、藤原斉信、源俊賢などが和歌を献上するなか、実資だけは道長からの依頼を断っている。

このときに公卿らに和歌を依頼して回ったのが、自身も和歌を献上した、俊賢だった。どれだけ催促しても「大臣の命で歌を作るなど前代未聞」と拒否し続けた実資のガンコさを、俊賢は批判。実資のほうも「寄らば大樹の陰」のスタンスを隠さない俊賢に、失望したという。

だが、もともとは実資もその実力を評価しており、俊賢はただの策略家ではなかった。自身の昇進によって、蔵人頭を辞任するときのことである。一条天皇から後任の人選について相談されたとき、俊賢は24歳の藤原行成を、後任の蔵人頭として推挙。 『大鏡』によると、行成が昇殿を許されない地下人だったので、一条天皇は蔵人頭への抜擢をためらったものの、 俊賢が強く推したらしい。

行成は、右少将・藤原義孝の長男として生まれた。祖父は右大臣の藤原伊尹と、血筋に恵まれたが、早くに父や祖父が亡くなり、一族は没落。それでも学識に優れた行成は、母方の祖父・源保光(やすみつ)の庇護を受けながら、高い教養を身につけていく。

不遇の時代を過ごすなかで、俊賢の推挙によって蔵人頭へと抜擢されると、持ち前の実直さが評価されて、出世の道が開けた。「四納言」の一人として道長を支えたばかりか、道長の長男・藤原頼通が摂政となってからも、行成は側近として活躍する。

躍進のきっかけをくれた俊賢への感謝を、行成はいつまでも忘れることはなかった。位階で俊賢を超えたあとも、決して上座には座らなかったという。

「書の達人」としても知られた行成。彼が書き残した日記『権記(ごんき)』は当時の人々の生活を知る貴重な史料となっている。

そんな行成の活躍を思うと、俊賢の眼は確かだったのだろう。いろんな権力者への気配りを行いながら、情勢を見極めるなかで、人の才を見抜く力が培われたのではないだろうか。

芸術の才能あふれる藤原公任

「四納言」には、道長のかつてのライバルもいた。藤原公任と藤原斉信である。

公任は、関白の藤原頼忠を父に、醍醐天皇の孫の厳子を母に持つ、将来を約束されたサラブレッドだった。

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