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とにかく明るい「枕草子」清少納言が悲劇隠した訳 後世に名を残す名作、執筆し始めたきっかけ

東洋経済オンライン / 2024年5月26日 7時40分

清少納言のゆかりの地である、泉涌寺(写真: 安ちゃん / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第20回は、清少納言と定子のエピソードを紹介する。

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清少納言は絶頂期の定子のもとへ

まともに正視することができない……。それほど輝く人と出会うことが、人生にはあるらしい。

【写真】泉涌寺にある清少納言の歌碑

『枕草子』を書いた清少納言にとっては、一条天皇が寵愛した藤原定子が、まさにそんな存在だった。几帳の後ろから定子を見て、清少納言はこんな感想を抱いた。

「かかる人こそは、世におはしましけれ」

こうした方が世の中にはいらっしゃるのだなあ……。ただただそう感嘆する清少納言の胸中がよく伝わってくる。

清少納言が定子に仕えたのは、正暦4(993)年。時の権力者となった藤原道隆が娘の定子を一条天皇に入内させて、3年が経った頃のことだ。

その前年の正暦3(992)年、伊周は19歳の若さで、権大納言に任ぜられている。この時点で、8歳年上の叔父・藤原道長と並ぶことになった。さらに、正暦5(994)年には伊周は内大臣にまで上り、権大納言にとどまる道長を抜き去っている。

伊周を露骨に引き上げたのは、言うまでもなく、父の道隆である。伊周にとっては祖父にあたる兼家が亡くなると、道隆が摂政・関白となり、政権を我が意のままとした。道隆は定子を入内させるや否や、強引に中宮にし、その一方で長男の伊周を急速に出世させた。

まさに中関白家の絶頂期に、清少納言は定子のもとにやってきた。

伊周と一条天皇が徹夜で漢詩を勉強

定子の姿をただ感嘆して眺めることしかできなかった清少納言。しばらくは、ずいぶんと気兼ねしたようだ。『枕草子』で、次のように振り返っている。

「宮に初めて参りたるころ、もののはづかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々参りて……」

立ち居振る舞いなど何もかもにおいて、気が引けてしまったのだろう。「涙も落ちぬべければ」、つまり、涙がこぼれてしまうほど緊張して「夜々参りて」、夜に参上するようにしていたという。

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