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ベトナムで「日本の会社」支える女性社長の生き様 丸亀製麺、吉野家、マツキヨなど提携先増やす

東洋経済オンライン / 2024年5月31日 12時30分

「父がつけてくれた、私の名前の由来は、有名なポエムからとった雲と雨。雲から生まれる雨が1滴ずつでも毎日続けば石でも削れる、石にも勝てるという意味です。毎日コツコツ勉強して、頭も心も鍛え、世の中の役に立つ人になりなさいと言われて育ちました」

意外なきっかけで日本に興味を抱くように

小学生のある日、1時間のテストを10分で終わらせたメイさんは、ひまつぶしに上級生のクラスに入り、解き方を教えているところを先生に見つかった。怒られるかと思いきや、その先生が提案したのは「飛び級」だった。

1986年、メイさんは15歳で、旧ソ連・ベラルーシの外国語大学に約100人のベトナム人大学生とともに国費留学した。

ベラルーシでの生活は、食文化や生活水準のあまりの違いに驚きの連続だった。そして意外なことに、メイさんはそこで初めて「日本」に関心を持つきっかけをつかんでいる。

「ベトナムでは、ごはんと塩だけという食事ばかりだったのが、ベラルーシは都会で、肉が食べられる。牛乳やチーズ、バターを味わったのも初めてでした。いつも『すごい、すごい』と繰り返し言っていたら、ある時近所のおばさんにこう言われたんです。『日本の製品はもっとすごい、これから日本はすごい国になる、帰ったら日本語を勉強したほうがいい』、と」

大学で成績優秀だったメイさんは卒業後も、大学院へ奨学金付きの進学が約束されていた。だが、帰国を申し出てベトナムに戻ったのは1989年の夏、18歳のときだった。図らずも、それからおよそ3カ月後、ベルリンの壁が崩壊、そしてソ連崩壊へと続いた。

ベトナムに帰国したメイさんが迷わず始めたのが、日本語の習得だった。夜間の貿易学校に2年通って、日本語と貿易実務を学び、当時、ベトナムで日本企業初の駐在事務所を開設していた商社「日商岩井」(現・双日)に就職した。

面接時には話せなかった日本語も、7年勤務する間に上達。第1子を出産するタイミングで、日本企業の貿易を広くサポートしたいと、日越貿易会社に転職した。

そこで、さまざまな日本の中小企業の経営者らに出会った。アジアン雑貨ブームに乗って、民芸品を企画生産し、日本に輸出する会社を立ち上げたり、事業継続が困難になった大手日系ハムメーカーの水産加工工場を引き取ったりしながら、経験と信頼を積み重ねていった。

水産加工の事業では、子どもを寝かしつけた後、深夜0時に卸市場に出かけて原材料を仕入れ、早朝5時に戻って、2時間寝てまた仕事に出る、という生活を5年続けた。

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