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「引退から50年」長嶋茂雄は一体何が凄かったのか 監督時代も知らない人に伝える唯一無二の野球人

東洋経済オンライン / 2024年6月7日 14時0分

「長嶋茂雄巨人入り」は、全国の野球ファンにとって注目のニュースとなり、1958年春のキャンプ地の兵庫県明石には多くのファンが詰めかけた。
ルーキーイヤーに長嶋茂雄は、29本塁打で本塁打王、92打点で打点王、そして打率は.305で2位。あわや新人で三冠王という空前の活躍をする。新人で打撃タイトルを取った打者は、これ以外には翌1959年に大洋の桑田武が31本で本塁打をとった例があるだけ。長嶋茂雄は今に至るも最高のデビューをする。

この年の11月、皇室会議は皇太子(現上皇)が翌1959年4月のご成婚を発表。日本人は皇太子ご成婚の放送を見ようとテレビの受像機を先を争って購入、テレビの普及率が急増したが、そのテレビで、巨人の長嶋の縦横の活躍の模様が放映されたのだ。

翌1959年6月25日、プロ野球は「天覧試合」に沸くことになる。昭和天皇は、毎夜、皇居の北側、水道橋(後楽園の最寄駅)の空が光ることに気が付かれ「あれは何か」と尋ねられた。「職業野球のナイターでございます」と説明を受けた昭和天皇は「試合を見てみたい」と言われたという。

これまで大相撲や社会人野球、サッカーなどの「天覧試合」はあったが、プロ野球は初めてだった。対戦カードは巨人対阪神。プロ野球コミッショナー、セ・パ両リーグ会長などが昭和天皇、皇后の傍で固唾をのんで試合を見つめる中、試合は9回表を終わって4-4、すでに午後9時、昭和天皇は9時15分には退席されるという9回裏、阪神の2番手村山実から長嶋茂雄は左翼線に劇的なサヨナラホームランを打った。

テレビ中継は巨人戦一色

日本国中が沸いたこの一打の瞬間に、プロ野球は日本の「ナショナルパスタイム」になったと言っても大げさではない。また、この時から「巨人」は、プロ野球でも別格の存在になった。

1950年代の新聞のラジオ欄を見ると、午後7時のゴールデンタイムには「巨人戦」と共にパ・リーグの黄金カードだった「南海-西鉄戦」なども見える。さらに休日には大学野球のテレビ中継もあった。

しかし1960年代にはテレビ中継は巨人戦一色になっていく。当時、少年雑誌が雨後の筍のように創刊されたが、こうした雑誌の表紙には長嶋茂雄の顔がでかでかと載った。ライバル紙が揃って「長嶋の表紙」も珍しくなかった。また長嶋茂雄が登場する野球漫画もたくさん掲載された。中には長嶋茂雄がバットで宇宙人を撃退するという荒唐無稽なものさえあった。

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