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「20歳下の紫式部と結婚」藤原宣孝のトンデモ求愛 父の為時と同僚関係、越前には宣孝の手紙も

東洋経済オンライン / 2024年6月16日 12時30分

時代考証を担当しているのが、日本古代政治史や古記録学を専門とする倉本一宏氏とあって、最新の研究成果も交えた質の高いシナリオになっているように思う。

実は、式部と道長が恋愛関係にあったとする説は、以前からあるものだ。南北朝時代に成立した系図集『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』では、紫式部の箇所に「御堂関白道長妾云々」とある。ただし、ここでの「妾」の意味合いや、『尊卑分脈』の信憑性については、議論があり、意見が分かれている。

これをもって「式部と道長が実は恋愛関係にあった」とするのは早計だが、「光る君へ」での設定は、それほど無理があるものではないようだ。

世渡り上手で派手好きだった藤原宣孝

では、史実において、紫式部が男女の関係にあったのは誰かといえば、夫となる藤原宣孝である。どんな人物だったのか。

権中納言の藤原為輔と、参議の藤原守義の娘の間に、宣孝は生まれた。紫式部の父である藤原為時は宣孝の父・為輔と従兄弟関係にあたる。また、年齢については後述するが、為時と宣孝は同年配だったと思われる。

さらにいえば、2人は同僚でもあった。永観2(984)年8月、円融天皇が退位し、花山天皇が即位すると、為時は式部丞で六位蔵人に任じられた。約2カ月後に左衛門尉の宣孝も同じく六位蔵人に補されており、2人は接点を持つこととなった。

共通点の多い為時と宣孝だが、生き様や性格のタイプは、ずいぶんと違ったらしい。

為時がなかなか官職につけないなかで、宣孝は備後・周防・山城・筑前などの国司を経験している。藤原道長に誘われた宴席すらも終われば「即帰り」する為時とは違って、宣孝は世渡り上手だったのだろう。

また、長保元(999)年11月11日には、賀茂臨時祭の調楽が行われて、宣孝はずいぶんと活躍したらしい。側近として道長を支えた藤原行成が、その日の日記に次のように綴っている(『藤原行成「権記」全現代語訳(上)』倉本一宏著、講談社学術文庫より)。

「今日、調楽が行なわれた。殿上のあちこち、下侍の前において、盃酒の饗宴が行なわれた。右衛門佐の人長は、甚だ絶妙であった」

右衛門佐とは「藤原宣孝」を指し、「人長」は舞人の長のことをいう。宣孝は何かと派手なことが好きだったようだ。御嶽詣に派手派手しい衣で参拝して、清少納言の『枕草子』で、痛烈にイジられることもあった。

藤原宣孝の求愛をあしらう紫式部

何かと父とはタイプが違う宣孝のことを、式部はどのように思っていたのか。長く不遇だった父の為時がようやく越前守という官職を得ると、式部も一緒に越前へ。現地では、こんな歌を詠んでいる。

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