村上春樹『風の歌を聴け』が描く戦後日本の虚無感 「日本的なるもの」の喪失を描いた透明な文学
東洋経済オンライン / 2024年6月19日 12時0分
太宰治、三島由紀夫、大江健三郎、村上春樹、村上龍、高橋源一郎、島田雅彦……。戦後日本人の精神史を、京都大学の浜崎洋介氏、藤井聡氏、柴山桂太氏、川端祐一郎氏が代表的文学作品、文学批評から読み解いた『絶望の果ての戦後論』より、一部抜粋・編集して紹介する。
「透明」に向かう80年代文学
浜崎:『風の歌を聴け』が書かれた時代の文脈整理から始めます。政治的騒乱と高度成長の60年代が終わり、70年代後半から次第に「白けた日常」が始まります。そこに登場してくるのが、そんな「白けた時代」の空気を反映させながら、しかし、対照的な「気分」を描いた2つの小説、村上春樹の『風の歌を聴け』と田中康夫の『なんとなく、クリスタル』でした。
ここでキーワードになるのが「透明」という言葉です。村上龍の『限りなく透明に近いブルー』の「透明」は、かろうじて「ブルー」なんですが、村上春樹の『風の歌を聴け』の「風」や、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』の「クリスタル」には、やはり「色」がない。つまり「色のついた私」から「色のない私」へ、その「色」が抜けていくときの儚さや、切なさや、軽やかさといったものを描いたのが80年代前後の小説だったと言えます。
しかし、興味深いのは、それが90年代からは、次第に「耐えられない透明さ」に変化していくことです。つまり、「色のない私」に対する焦燥とか不安感が高まってきて、これが、あの酒鬼薔薇聖斗の「存在の耐えられない透明さ」なんかに繋がってくるわけです。
これを「対米従属」の視点から整理すると、要するに、対米依存による高度成長(対外的緊張・決断を他国に預けたままでの経済成長)によって、「日本的なるもの」がどんどん脱色されて「誰でもない私」(透明)になっていくことに対する奇妙な解放感と、しかし、それゆえの不安感とでもいった感情だと言えるのかもしれません。実際、80年代には、アメリカに対する負債感やうしろめたさはほとんどなくなっていますが、その点、今日取り上げる村上春樹は、まさに「透明である私」の空虛感を描いた作家であり、田中康夫の方は、「透明である私」の軽やかさや、明るさを描いた作家だと言えるのではないかと。
浜崎:まず、村上春樹ですが、阪神淡路大震災とオウム真理教事件のあった1995年に刊行された『ねじまき鳥クロニクル』あたりから、「透明」ではない「色」、つまり、日本の歴史的な負荷を積極的に描き始めることになりますが──本人は、それを「デタッチメントからコミットメントへ」というふうに言っています──しかし、それ以前の、初期・村上春樹は、よく言われるように、「歴史が終わった後の空虛感」とか、「後期資本主義社会の気分」とか、「大きな物語を失った後の日本人の孤独」とかいった感情を背景にしながら、「何かを喪ってしまった後のメランコリー」といったものを文学的主題としていました。
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