村上春樹『風の歌を聴け』が表現する日本的感性 「他人とは分かり合えない」から始まる人間関係
東洋経済オンライン / 2024年6月20日 11時0分
でも、逆に言えば、他者に踏み込んだり踏み込まれたりした時代、それが春樹にとっては否定すべき60年代なんでしょうね。要するに、マルクス主義という「大きな物語」があって、それを介して「お前はどうするのか」っていう踏み込みの「暴力」が許されていた時代、それが春樹の否定すべき「近代」だったということです。
互いを尊重しつつもプライベートには立ち入らない
浜崎:でも一方で、その「暴力」がなくなったせいで、誰とも絆を作ることができなくなった。その「喪失感」や「悲しみ」が、まず冒頭で徹底的に書かれているわけです。だから、どんな会話も絶対に正面からぶつからないし、誰も本気になることはない。会話は必ずはぐらかされるし、「何も考えるな。もう終わったことじゃないか」とか「それだけのことさ」とか「意味ないさ」とか「やれやれ」といった言葉もたびたび出てくる。
その意味では、前回藤井先生が、破壊できないのだとしたら、逃げ場所として女の子が出てこざるをえないじゃないかって言ったけど、まさにそのとおりです。春樹はこの他者との距離感、「葛藤」をうまく回避しながらコミュニケーションを続けていく空間に居場所を求めようとするわけです。だから、問題は、これを良しとするのか、悪しとするのかですよね。
ただし、その「居場所」を書かせると、めちゃくちゃ巧いんですけど(笑)。
柴山:最後まで飽きさせないという意味で、読者サービスも徹底していますね。
浜崎:そうそう。でも、だから思春期に読んだときは、正直、怖かったですよ。こっちの方が無駄に傷つかなくてすむし、絶対カッコいいと。でも、こっちに行ってしまうと、まさしく「相対主義」を認めるようなことになるんではないかという怖さがありましたね。
柴山:その危険はよく分かるんですけど、今回読んでみてちょっと評価が変わったのが、そういう他者に踏み込まない形での倫理もありうるのかな、と。
藤井:そうなんですよ。
柴山:他者の人格を尊重するという意味での倫理は、普通は深い人間的な関わり合いのなかでしか成立しないはずなんですけど、村上春樹の小説は「デタッチメント」の世界を前提に、それでも倫理的に人は生きられるとしたら何があるんだろうってことを問おうとしているような気がします。
それで思い出したのが、ジェイン・ジェイコブズという評論家が、ニューヨークの都市計画について書いた『大都市の死と生』です。昔読んで印象に残っているのは、優れた都市はどんなものかっていう問いの答えで、確か次のように書いていたんです。優れた都市とは、住民の誰かが旅行に行くときに、自分の家の前のお店に鍵を預けることができて、しかもその預けた主人がどこに行くかをいちいち聞いてこないような人間関係が成立している所だ、と。要するにお互いの存在を認めつつもプライベートには立ち入らない、微妙な信頼関係が成立している状態を、都市の理想だと考えたんです。村上春樹がここで書こうとしてるのも、そういう関係性ではないかと思ったんです。
絶望的な状況から始まる人間関係
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