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孫を皇太子にした道長を恨む"意外すぎる人物" 一条天皇は定子の子供も、後継者で揺れる宮中

東洋経済オンライン / 2024年6月23日 8時40分

悩める一条天皇の説得役を担ったのは、道長の側近で、蔵人頭の藤原行成だ。こんな理屈で一条天皇を説得している。

「現在の藤氏皇后は、東三条院・皇太后宮・中宮みな出家しているので、氏の祀りを務めない。中宮の封戸(ふこ)は、神事に奉仕するために設けられている」

「中宮が出家している」という異例の状況を突いた、うまい理屈だといえるだろう。

さらに「我が国は神国なり。神事をもって第一にすべし」と畳みかけて、一条天皇の説得に成功した行成。道長からは「子どもの代まで感謝する」という言葉までかけられている。ここが一つの正念場だったということだ。

こうして13歳で中宮となった彰子だったが、同年に定子が25才で病没。彰子は、母を亡くした敦康の養母となることになった。

道長が気になったのは、居貞親王のことだろう。居貞親王は冷泉天皇の第2皇子にあたる。母は藤原兼家の3女・超子(ちょうし)で、道長にとっては甥にあたる人物だ。

居貞親王は一条天皇の4歳年長の従兄でありながら、兼家のバックアップによって、一条天皇の即位とともに、皇太子となっている。つまり、皇太子が天皇より年上という異常な状態のなか、居貞親王は皇太子として長い年月を過ごしていた。

居貞親王と藤原娍子との間には、第1皇子となる敦明親王がすでに生まれている。道長からすれば、娘の彰子が一条天皇の子を成さなかった場合に備えて、定子との間に生まれた敦康を、後見役としてバックアップする必要があった。

道長が娘の彰子の懐妊を強く望んだのは言うまでもないが、居貞親王サイドのことを踏まえれば、道長の願いがより切実なものとして伝わってくる。

道長を恨んだ意外な人物とは?

寛弘5(1008)年、ついに彰子が一条天皇の間に子を成すこととなる。生まれたのは男の子で、敦成親王である。さらに彰子は翌年にも出産。第2子となる敦良親王も誕生することになる。

理想通りの展開だ。あとは定子が産んだ敦康ではなく、自身の娘・彰子が産んだ敦成を、将来的に天皇に据えるべく動くのみだった。

3年後、一条天皇が重い病に伏せると、居貞親王に譲位が行われ、三条天皇として即位した。問題は誰が皇太子になるか、である。

一条天皇は定子との間に生まれた敦康を後継者にしたかったが、道長は自分の孫である敦成を何としてでも皇太子にしておきたい。

そこでまた一条天皇の説得役として頼りにされたのが、藤原行成である。

行成は「皇統を継ぐ者は、外戚が朝廷の重臣かどうかに基づく」と強調。確かに、敦康を皇太子に据えたところで、バックアップする者がいない。「敦康を憐れむならば年給を」という行成の理屈はもっともであり、またも一条天皇の説得に成功している。

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