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グローバリズムに変質しない「国際主義」は可能か 実践しえない「無窮の実践」というパラドックス

東洋経済オンライン / 2024年6月28日 12時30分

中野:関連して、もう一つ、ユニバーサル(普遍)とグローバルの違いについて指摘したいと思います。ユニバーサルは個別の中に抽象的なものとしてあるが、グローバルは具体的で、個別的な違いを無視して一律にするものです。

たとえば、世界中をキリスト教にすることはグローバルですが、宗教を認め、そしていろんな種類の宗教を認めることはユニバーサルです。だからユニバーサリズムとグローバリズムとは別物です。ユニバーサリズムとグローバリズムを混同することは、グローバリズムとインターナショナリズムを混同することと同じくらい誤解のもとになってるんじゃないか。

ユニバーサルをグローバルと勘違いした者が、ユニバーサリズムと称して、世界中を一つの型でならそうとするのが問題なのです。その意味では、九鬼周造の議論は最初から最後まで、グローバリズムが入る余地はないですね。

中野:つまりユニバーサルというのは、個別具体的には、いろんな姿で現れる。

例えば、自由の概念は国ごとに異なります。スウェーデン人の自由は福祉国家的で、アメリカ人の自由はリバタリアン的です。それぞれの国で「自由」の意味は異なりますが、どの国も自由そのものを否定しているわけではありません。このように、抽象概念としての自由はユニバーサルですが、具体的に表現されると一つではなく多様な形を取ります。

古川:非常に重要なご指摘だと思います。九鬼は中世哲学の伝統を受け継いでいますから、彼の言う「普遍」というのは、あくまでユニバーサルなものです。文字どおり宇宙的、あるいは神的な次元のもので、そんなものが目に見える具体的な現実の中にそのままで存在するわけがありません。グローバリズムというのは、そういうユニバーサルなものが見失われた近代世界において、現実の中にある何らか特定の具体的なものを普遍とみなす誤解に基づいていると言えそうです。

ユニバーサリズムは実践によって破綻する

佐藤:九鬼がグローバリズムを考えていないことは、九鬼の議論にグローバリズムの入り込む余地がないことを意味しません。ここでのキーワードは「実践」です。九鬼は「無窮の道義的実践」を説くものの、ユニバーサリズムの実践を試みると、遅かれ早かれグローバリズムに変質するのではないか。理由は簡単で、個別的な文化が本来すべて対等であるとしても、文化間の優劣は、国同士の力関係という形で厳然として存在するからです。

中野:その対等っていうのが、政治的・倫理的な意味だったらそうかもしれないけれど、認識の意味では別に平等とか関係なくて、どっちが優れているかって話ではないんですよ。

佐藤:道義的実践を説く思想が、実践を放棄することでしか整合性を維持しえないのでは本末転倒と言わざるをえない。そもそも「いき」の根底にあるのは、このままでは近代西洋の文化的覇権が日本の個別性を消し去ることへの不安でしょう。「普遍性を獲得した日本文化による覇権」というグローバリズムに流れるほうが自然だと思いますが。

中野:政治のレベルに落とし込むと難しいというのは、まさにそのとおりです。ただ、今、私が議論しているのは、政治的なレベルに落とし込む前の哲学的な世界についてです。ユニバーサリズムが個別の中にのみ普遍はあるとする立場なら、個別の多様性を認めないグローバリズムは、ユニバーサリズムを否定するものだということは強調しておきたい。

「令和の新教養」研究会

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