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グローバリズムに変質しない「国際主義」は可能か 実践しえない「無窮の実践」というパラドックス

東洋経済オンライン / 2024年6月28日 12時30分

古川:理解はできるが、完全には理解できない。あるいは、理解できたつもりになっても、実は異なる理解になっている。そういうことだと思います。

中野:そういうことかもしれないですね。ちなみに、マックス・ウェーバーが理念型の話をするときにも都市経済を例示しています。われわれは、ハンブルグ、東京、ロンドン、ニューヨークの4都市を見ても、それぞれまったく異なる都市だけど、それらを「都市経済」として理解している。抽象概念としての「都市経済」は普遍的ですが、実在するのは、あくまでハンブルグ、東京、ロンドン、ニューヨークといった個別具体の都市の経済であって、抽象的な「都市経済」は実在しない。

先ほどの神の話だと、「神が多くの名前である」よりも、「神は多くの名前を持つ」に近い。

古川:ウェーバーの場合はそうですね。共通の本質を理念として抽象している。

中野:「神が多くの名前である」というのは、ちょっと理解し難いですね。神という存在をA・B・C・Dと個別に名付けて、いろんな神がいるんだって言っているけれど、「神」と言っている時点で、神と神じゃないものの区別をつけていて、個別具体的なA・B・C・Dという神の中に「神」という普遍的な概念があると言っているわけですよ。

このように、抽象的なレベルでは通約可能だけど、具体的なレベルでは通約不可能ということなのではないでしょうか。

佐藤:個別的な経験は通約不能で、抽象的な観念のみが通約可能というのは、インテリの自尊心をくすぐるんですよ。自分たち以外に、文化の相互理解を担える者はいないことになりますから。しかしピーター・ブルックの仮面の話が示すとおり、それは多分にうぬぼれだと言わねばなりません。

古川:体験のレベルでの通約の可能性そのものは、九鬼も否定はしないと思います。というか、そもそもそれは否定も肯定もできない。わからないからです。

西洋人が、いわば本物の「いき」を体験することだって、当然あるでしょう。逆に、日本人でも「いき」がわからない人はいくらでもいます。私も全然わかりませんし(笑)。

でも、そういう体験のレベルで本当にわかっているかどうかなんて、確かめられないですよね。自分たちがわかり合えているかどうかを確かめるためには、言葉によるほかない。けれども、言葉にしたとたん、それは体験の直接性を離脱してしまう。九鬼が問題にしているのはそういうことです。

ですから、インテリかどうかというのは、あまり関係のないことではないかと思います。誰だってそうなのですから。

ユニバーサルとグローバルの違い

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